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大阪音楽大学について

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1946年~1955年



1946年(昭和21年)

大阪音楽大学の歴史

空襲から焼け残った校舎と生徒たち(昭和21年頃)
鉄筋コンクリートで焼失を免れた本校の周辺は、かなりの焼け跡になっているのが分かる

プログラム表紙

1月27日 戦後初の本校演奏会(天理高等女学校講堂)
学校職員生徒約120名が参加した

3月7日 大阪音楽学校春季演奏会(毎日会館、現・国民会館)
本校主催としては戦後初の演奏会

戦後初の生徒募集広告(3月7日「大阪音楽学校春季演奏会」プログラムより)
予科、本科、師範科(専攻科)各50名を募集

3月23日 戦後初の卒業証書
専攻科第十二期女子5名、本科第十七期男子1名卒業
5月14日 大阪府立生野中学校主催 大音楽会(大阪府立生野中学校講堂)
6月3日 大阪帝国大学医学部記念祭文化体育週間 音楽・演劇会(毎日会館 現・国民会館)
11月10日(海外引揚同胞援護資金募集) 大阪音楽学校職員生徒合同演奏会(和歌山師範学校講堂)
和歌山における音楽文化の向上、および優秀な音楽家の斡旋などを目的に新設された、和歌山音楽芸術社が初後援した演奏会に招聘された。主催は恩賜財団同胞援護会和歌山県支部
戦後初の演奏会
本校の戦後初の演奏会は天理高等女学校(現・天理高等学校)校友会主催の音楽会であった。これは戦後まもなく天理高等女学校の村上英雄校長が、天理教教祖が自ら記した“おふでさき”と呼ばれる教えを全校生徒に伝え、戦争で傷ついた生徒たちに豊かな情操を取り戻させようと、同校で音楽教員をしていた本校の卒業生を通じ、永井校長にその“おふでさき”の中の三首を歌詞に歌を作曲依頼したという縁によるものであった。
その歌を発表する場として、教祖六十年祭期間中の昭和21年1月27日に天理高等女学校講堂で、本校生徒職員約120名による演奏会が催されたのである。この時、村上校長作詞・永井校長作曲の《教祖六十年祭奉祝歌(おしえのおやむそとせのまつりほぎうた)》もあわせて発表されている。
村上校長は後日、その時のことを「永井先生苦心の曲は満堂の生徒に異様な感動と興奮を与えた。」と述べている。(昭和45年6月21日 天理時報)この“おふでさき”はその後も山田耕筰、團伊玖磨、池辺晋一郎などによって作曲されているが、「おうた」と呼ばれるそれらの曲の第一号がこの日発表された永井校長作曲の《やまさかや》という曲で、今でも天理中学・高等学校の卒業式に歌い継がれ、広く信者に親しまれているという。

プログラム
※クリックで拡大します。

昭和21年1月28日 60年祭日報より 天理時報(天理教道友社提供)

「大阪音楽学校春季演奏会」プログラム

その後、3月7日に本校主催としては戦後初の演奏会が毎日会館(現・国民会館)において、毎日新聞社の後援で行われている。折しもこの3月に発疹チフスが大流行し、大阪府が劇場等を22日に急遽閉館する直前のことであった。

関西音楽の歴史

2月 関西合唱連盟設立
朝日新聞社の後援により設立。4月29日、大阪朝日会館にて創立記念合唱大会開催

11の団体が出演、連盟委員長は長井斉であった

※クリックで拡大します。

4月 宝塚大劇場再開
雪組が《カルメン》他を上演

5月 日本現代音楽協会結成(日本作曲家聯盟の復活)

6月22日 大阪市音楽隊、大阪市音楽団と改称

9月 大阪レコード愛好家協会設立

11月3日 第一回関西合唱コンクール開催
設立されたばかりの関西合唱連盟主催。23団体が出場、アサヒ・コーラスが特別出演として第九の合唱を披露

コンクール要綱

大阪府文芸賞創設
音楽の分野では昭和22年に辻久子が、23年に永井校長、大阪府芸術賞と改称された昭和24年には朝比奈隆が受賞している
戦後、躍動する作曲界
戦後から1950年代にかけて、戦時下の停滞を取り戻すかのように、作曲界では同人発表会などを行うグループが数多く結成された。
1947年(昭和22年)には「新作曲派協会」(清瀬保二、松平頼則、早坂文雄ほか)、1948年(昭和23年)には「地人会」(平尾貴四男、安部幸明、高田三郎、貴島清彦ら)が結成され戦前からの堅実な作風をみせた。
一方で、戦後の新たな時代意識が1949年(昭和24年)に公開作品発表会を開催した「新声会」(柴田南雄、中田喜直、入野義朗、石桁真礼生、戸田邦雄、別宮貞雄ら)によって示される。新声会ではシェーンベルクの十二音技法を取り入れた作品が発表されるなどヨーロッパの20世紀音楽、あるいは前衛を意識した活動がなされていた。
ほかにも、1950年代に入ると「山羊の会」、「3人の会」、「深新会」、「葦の会」、「グループ20、5」、「新音楽の会」、そしてジャンルを越えた「実験工房」と数多くのグループが生まれるなか、1957年(昭和32年)に「現代音楽祭」(軽井沢で開催、ダルムシュタット現代音楽祭をモデルとする)をはじめた「20世紀音楽研究所」(発起人:柴田南雄、入野義朗、黛敏郎、諸井三郎)は戦後の作曲界を代表するグループになっていった。
一方、関西では大澤寿人らが1949年(昭和24年)に関西作曲家協会を結成している。大澤は1930年代のアメリカ、ヨーロッパのモダニズムをいち早く身につけ帰国、戦後はジャズの影響を色濃く受けた《サキソフォン協奏曲》などの作品を発表し、ラジオ放送を通じて近代音楽、20世紀音楽の紹介にも努めたが、1953年(昭和28年)に没している。

1947年(昭和22年)

大阪音楽大学の歴史

2月23日 大阪音楽学校音楽演奏会(奈良女子高等師範学校講堂)

4月1日 大阪音楽学校同窓会発足

6月 昭和天皇大阪行幸 歓迎式典にて歌唱

箕面に新入生歓迎遠足

戦後の昭和天皇の全国巡幸における大阪ご訪問の際、府庁前で歓迎の歌を歌唱した際の記念写真

7月10〜14日 戦後初の演奏旅行(城崎、鳥取、倉吉、米子、豊岡)

10月14日 第三十三回大阪音楽学校創立記念日祝賀音楽会(デモクラシー会館)

12月20日『楽友』を復刊
夏に赴いた山陰地方への演奏旅行号という内容であったが、永井校長の巻頭の辞のあとに竹内忠雄新常任理事が「大阪音楽大学実現に」と題した文章を寄せており、将来の大学設置を見据えて、来春から高等学校として出発すると書かれている

『楽友』復活第一号(大阪音楽学校楽友会文芸部発行)

同窓会の発足
創立32年目にして本校に同窓会組織が誕生する。当時を知る資料は現在残されていないが、翌年の音楽高等学校設置、さらには大学設置の推進のためであったのかもしれない。事実3年後の「大学設置基金募集文化祭」はこの同窓会主催で行われており、本校にとっての節目となる局面に際し、卒業生たちが母校の発展のために協力していたようである。
1962年(昭和37年)8月26日には《幸楽会》という正式名称が決まり、会則も制定された。《幸楽会》となってからの初代の会長は木村四郎教授であった。
その活動は「母校の発展に寄与し、会員相互の交誼を親密にし、音楽文化の向上を図ることを目的として」(会則第3条による)、年1回の主催コンサート、総会・親睦パーティーの開催、会報の発行、母校ならびに在学生・卒業生への援助などの事業を行っている。
現在、北海道から沖縄まで全国21支部、ヨーロッパ3支部(ドイツ・フランス・イタリア)があり、会員数約35,000人となっている。

大阪音楽大学同窓会《幸楽会》ホームページ
http://kougakukai.net/
戦後最初の演奏旅行
戦後最初の演奏旅行は、開校後間もない本校初の演奏旅行同様、永井校長の出身地である鳥取を中心とした山陰地方からスタートしている。終戦わずか2年後のことである。永井校長はじめ9名の教員が38名の生徒を引率して、総勢47名、四泊五日の旅であった。城崎温泉で一泊したのち、当時の鳥取市日進小学校を皮切りに倉吉、米子、豊岡と4つの学校を回り、午前は生徒たちのため、午後からは父兄一般のためというように、合計8回の演奏会をこなしている。
この年復刊された『楽友』復活第一号に寄せられたある生徒の随想録によると、最後に演奏会を行った豊岡高等女学校の生徒たちが、校庭のあたりから自分たちの乗る列車に向かって盛んに手を振り「サヨナラ又来て頂だーい」(原文ママ)と可愛い声で見送る姿に、演奏旅行に来た甲斐とその土地の人情に触れたような久々に温かい気持ちになったと綴っている。
演奏旅行というものを始めた当初より、生徒たちから旅費は一切徴収していなかったので、毎回赤字を出していたようだが、永井校長はそれについて一度も口にしたことがなかったという。しかし生徒たちがこのように地方に出向いて演奏する意義と喜びを感じていたとしたら、たとえ赤字になっても生徒たちに貴重な体験を積ませたいという永井校長の思いは果たせていたのではないだろうか。
『楽友』復活第一号に掲載の記事より

演奏旅行における主なプログラム

私の間食一覧表
戦後の食糧難の最中だったせいか食に関する記事が目につく

野口源次郎教員企画 演奏旅行献立一覧表

関西音楽の歴史

プログラム表紙

1月10〜13日 東京バレエ団関西第一回公演《白鳥の湖》(全幕)本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)
山田和男編曲・指揮 東宝交響楽団

1月 大阪放送交響楽団 BK(大阪中央放送局)ラジオ放送における演奏を再開
1月16〜21日 藤原歌劇団公演 ヴェルディ《椿姫》(毎日会館 現・国民会館)
戦後初の関西における本格的オペラ公演
3月31日 教育基本法・学校教育法公布
4月より新学制(六・三・三制)実施 男女共学が認められる
4月26日 関西交響楽団第一回定期演奏会(大阪朝日会館)
朝比奈隆指揮《新世界より》ほか
9月には後援団体「関響友の会」発足
5月16日 小牧バレエ団大阪公演《パレード》《シェーラザード》(大阪朝日会館)

プログラム表紙

プログラム表紙

7月 関西室内楽同好会設立
関西室内楽合奏団を中心に月一回の例会を開催
11月15〜19日 藤原歌劇団公演 ヴァーグナー《タンホイザー》(大阪朝日会館)
本邦初演の関西公演

関西室内楽合奏団(右から朝比奈隆、伊達三郎、小杉博英、宮本政雄)

プログラム表紙

第1回全日本学生音楽コンクール開催(毎日新聞社、サン写真新聞社主催、第2回目以降は毎日新聞社のみ)
第1回と第2回は東日本大会と西日本大会を東京と大阪で実施した。全国大会は本選で演奏されたものを録音し、AK、BK(東京中央放送局、大阪中央放送局)放送を通じて東西の審査員が審査して全国大会第1位を決定
関西交響楽団創立
1946年(昭和21年)、満州ハルビンでの指揮活動より敗戦を経て引き揚げてきた朝比奈隆が、BK(現・NHK大阪放送局)ラジオ放送のためにメンバーを集めて再結成したのが「大阪放送交響楽団」(年表1933年の「ラジオ放送と放送管弦楽団」記事に前出)であった。翌年1月、朝比奈によって新たに「関西交響楽団」が創立された。このオーケストラは、大阪放送交響楽団がラジオ放送と切り離した演奏活動を増やすなかで、新たな組織と名称を必要としたことによって生まれたものである。創立記念演奏会ではドヴォルザークの《新世界より》、声楽の笹田和子、ピアノの伊達純を迎えて、オペラアリアや《ハンガリア幻想曲》が演奏された。後援団体「関響友の会」も組織され、瞬く間に会員1000名を集めることができた。
大阪放送交響楽団はあくまでもNHKのラジオ放送のために演奏することを目的としたため、同じ楽団を名称を変えて演奏会活動をおこなうという形をとっていた。明治以来、数々のオーケストラが関西に生まれたが、ここに初めて定期演奏会を開くことができるプロ・オーケストラが誕生したのである。また交響楽のみならず、当初よりオペラ、バレエへと活動の範囲が広いこともその特徴であった。
創立後しばらくは、ラジオの仕事とそれ以外の演奏会活動を掛け持ちするかたちが続くことになる。
一方、大阪放送交響楽団は、占領軍統治下のラジオ放送に様々な制約がついていたため、政治問題や思想検閲と無関係な西洋音楽の放送時間が増え、多忙をきわめていた。
3年後の1950年(昭和25年)にはラジオ放送と放送外の活動の両立は、仕事の質、量ともにバランスをとることが難しくなり、放送局から独立し関響は改組、社団法人「関西交響楽協会」が発足する。
1960年(昭和35年)にはいったん解散し、「大阪フィルハーモニー交響楽団」として再結成された。
創立より55年の長きにわたり朝比奈が指揮をとり、その間、戦前の音楽学校との関係や戦後も新校舎(豊中市)内に練習室をおいていた関係から、オペラ公演、関響演奏会などにおいて、大学とオーケストラの緊密な関係が長く保たれていた。

1947年(昭和22年)4月26、27日 関西交響楽団第一回定期公演

1947年(昭和22年)関響友の会発足

同 第一回定期公演 プログラム

同 第一回定期公演 団員表

1949年(昭和24年)2月 関西交響楽団機関誌月刊『交響』発刊

1950年(昭和25年)改組後の団員表

関西交響楽団の機関誌『交響』(創刊号、1949年2月)に掲載された、明治39年創立の大阪における最初の交響楽団、大阪音楽協会。以後、数々のオーケストラが生まれては消え、いずれも定着するものはなかった。
1906年(明治36年)12月2日 大阪音楽協会 第一回演奏会(1949年2月 『交響』創刊号)

前列左から五人目が指揮者の大村恕三郎、同三人目が陸軍第四師団軍楽隊楽長の小畠賢八郎、その後ろがのちに大阪市音楽団団長となった林亘、最後列左二人目が永井幸次
戦後、花開くバレエ
戦後、一気に公演数が増え、華々しい活動が展開されるのがバレエである。日本を代表するバレエダンサーたちが焦土のなか、一致団結して東京バレエ団としてわが国で初めて《白鳥の湖》を東京、帝国劇場で上演したのは1946年(昭和21年)8月9日のことであった。その《白鳥の湖》は翌年、関西でも上演された。東宝が資本支援したバレエ公演はその後も続々と関西上演をはたすが、第2回公演の《シェーラザード》より東京バレエ団として結集していたバレエダンサーたちはそれぞれが求めるバレエを目指して分派していく。小牧正英、貝谷八百子、服部智恵子と島田廣、谷桃子などがそれぞれの独立バレエ団として個性を競うようになる。そして戦後のバレエ界のめざましい発展は、日本における本格的オペラの上演を可能にしていくのである。
なかでも、関西とのつながりが深かったのは小牧正英である。小牧は朝比奈隆とは戦前より旧知の仲(上海バレエ・リュス時代に朝比奈と出会う)であり、朝比奈は小牧を高く評価していた。関西交響楽団と小牧バレエ団は1948年(昭和23年)《コッペリア》、1949年(昭和24年)《牧神の午後》ほか交響曲とバレエを結びつけた《新世界より》《受難》など毎年のように共演を重ねていくことになる。その中には本邦初演のものも多い。
1950年(昭和25年)3月17~19日 小牧バレエ団公演 グランドバレエ《アメリカ》本邦初演(大阪朝日会館)
朝比奈隆指揮《新世界交響曲》 服部良一指揮《ラプソディ・イン・ブルー》ほか 関西交響楽団

1947年(昭和22年)1月13~16日 東京バレエ団公演《白鳥の湖》(大阪朝日会館)プログラムより

《新世界交響曲》舞台面スケッチ 小磯良平筆(同プログラムより)

舞台プランを囲んで(同プログラムより)
左から小牧正英、竹中郁、小磯良平、吉原治良

プログラム表紙

1950年12月8~11日 小牧バレエ団公演《ペトルーシュカ》本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)
プログラム表紙

また、大阪で1937年(昭和12年)に設立された法村・友井バレエ団による近代バレエも関西交響楽団の演奏で公演がなされている。
1950年10月28、29日 法村・友井近代バレエ団公演《タイス》《雪女》(北野劇場)

第一幕より(プログラム)

プログラム表紙


1948年(昭和23年)

大阪音楽大学の歴史

1月23~25日 関西交響楽団結成一周年第七回定期演奏会に出演(大阪朝日会館)
朝比奈隆指揮 ヘンデル《ハレルヤ・コーラス》 べートーヴェン《第九交響曲》
本校合唱団が大阪放送合唱団、ジュピター・コール、アサヒ・コーラスとともに参加。ソリストとして教員の市木崎義子(アルト)、木村四郎(テノール)、横井輝男(バリトン)も出演した。関西における戦後初の第九演奏会であり、本校と関西交響楽団の初共演であった

4月1日 財団法人大阪音楽高等学校設立認可 永井幸次理事長就任
大阪音楽高等学校設立認可、開学 永井幸次校長就任
総定員120名、専攻科(二年)開設

6月19~21日 関西音楽研究集団第1回公演 マスカーニ《カヴァレリア・ルスティカーナ》に出演
19、20日:毎日会館(現・国民会館)21日:同志社栄光館
本校教員が中心となった関西音楽研究集団の公演に、高等学校になったばかりの本校合唱団も参加した。衣装、メイク、演技つきの本格的なオペラ上演は教員、生徒ともに初めてのことであった

プログラム表紙(OSAKA MUSIC HIGH SCHOOLと記載されている)

7月10日 故林亘氏を偲ぶ大演奏会に出演(大阪市中央公会堂)
陸軍第四師団軍楽隊廃隊後、大阪市音楽隊誕生以来、長年にわたり大阪市音楽団の団長をつとめた林亘氏を追悼する演奏会に大阪音楽高等学校混声合唱団の名前で出演。野口源次郎教員の指揮でマスカーニ《カヴァレリア・ルスティカーナ》の合唱などを披露

7月31日 朝日新聞厚生事業団主催 第一回たそがれコンサート 第九シンフォニーの夕に出演(西宮球場)
朝比奈隆指揮 関西交響楽団

9月1日 大阪音楽建物会社解散
大正14年、味原校舎建設のため、学内外37名の出資者により設立された大阪音楽建物会社が、財産全てを学校に寄附して解散

12月19日 関西楽壇大演奏会に出演(大阪市中央公会堂)
大阪音楽高等学校の誕生
1947年(昭和22年)に学校教育法が公布され、新制高等学校は一年間の準備期間を経て昭和23年度より発足した。本校は付帯条件の運動場確保に手間取り、遅まきながら昭和23年2月4日に「財団法人 大阪音楽高等学校」への名称変更、3月早々に「大阪音楽高等学校」設置許可の申請を提出した。当時の味原校舎は庭地さえなかったため、近くの銀行所有地である焼け跡の一角を近く買い取るということで借用契約を結び、何とか申請にこぎつけたのである。
申請から2か月後の4月1日、大阪音楽高等学校は認可され、開校する。ただし6か月以内の運動場拡張が条件とされていた。永井幸次が理事長、および校長に就任した。前例の少ない全日制・男女共学の音楽科新制高校の誕生であった。あわせてこの高校の上に音楽学校時代の師範系の専攻科を専門実技専修のための専攻科(二年)と切り替えて開設し、将来の大学設置に備えた。
生徒は1学級40名で、本科からの転入者、二、三年編入者などもいて、年齢はまちまち。授業科目は声楽・ピアノ・管弦楽器・音楽理論・一般教養で、この一般教養には音響学、音楽史などがあり、体育は社交ダンスなどを教えていた。授業は三学期制とし、音楽実技については二期制をとった。
音楽教員は音楽主任・朝比奈隆(指揮法、楽式)、教務・野口源次郎(音楽理論、作曲、合唱指揮)をはじめ、校長以下31名であった。

1948年(昭和23年)4月1日 大阪音楽高等学校認可書

《カヴァレリア・ルスティカーナ》公演
戦後の音楽学校は「オペラ」から本格的に復興した。戦前、早い時期にイタリアでオペラを学んだ声楽家、中川牧三を中心に、校内からのオペラ公演要望の声にこたえて、オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》の上演が行なわれたのは1948年(昭和23年)6月のことであった。この公演からのちの「関西歌劇団」が生まれることになる。中川は当時、本校の声楽部長であり公演に際して、指揮および歌詞の日本語訳(竹内忠雄と共訳)も行っている。小島幸、横井輝男、市来崎義子(のり子)ほかの本校教員を中心とする歌手陣に加えて本校生徒も出演するという、学校をあげてのオペラ活動の原点となった公演であった。
そもそもなぜ演目が《カヴァレリア・ルスティカーナ》だったのかというと、選曲にあたった中川によれば、オペラ初心者にいきなりの大作は無理だということ、そして演奏時間が短く、経費も安くて済むというのが理由であったという。加えてこの演目は、関西でも過去に何度か上演されており、馴染みのある作品だったということもあったのかもしれない。
公演に向けた練習は約半年間、放課後に味原校舎3階の講堂で行われた。歌もさることながら、メイクをして舞台で演技をするという初めてのことに、宝塚歌劇団や大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)から劇団員を招き、歩き方から指導してもらったという。
さらにこの公演には、戦後のいまだ物資が十分ではない中で、解決しなければならない様々な問題があった。まず東京から招いた東京フィルハーモニー・オーケストラ約60名の食糧と宿泊施設の問題である。農村地帯を駆けずり回って何とか米を確保し、宿泊施設も大阪公演では梅田付近のお寺を、京都公演では会場が同志社栄光館であったこともあり、当時の同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)の女子寮の空き室を宿として用意したそうである。
そして衣裳をそろえるのも大変であった。宝塚歌劇団から借り受けたり、ある者は紡績会社に勤める知人に生地を安く分けてもらってこしらえ、またある者は自分のワイシャツを染めたり、帽子もピアノの赤い鍵盤カバーで作ったりと、出演者自らが各々工夫を凝らした手作りなどをして本番に臨んだ。
こうして迎えた公演は、大阪、京都あわせて4日間とも昼夜2回公演であったが、会場は毎回大入り満員の大成功であったという。それというのも、市民が音楽に飢えていたということ、そして報道関係にも顔のきく中川が毎日新聞社からの全面的支援を取り付け、新聞社が連日報道して大量の切符を売りさばいた上に、出演者も率先して心斎橋などの街頭に出て手売りしたという努力があったようである。新聞社からの莫大な資金援助は、4日間の公演、東京からのオーケストラと著名な音楽評論家である大田黒元雄の招聘なども可能にしていた。
6月22日付けの毎日新聞には「清潔な成果」というタイトルで好意的な批評が掲載されたが、同時に舞台上での動きは全くの素人である、との厳しい指摘も受けている。この公演からのちの「関西歌劇団」が生まれることになる。永井校長自らが「新音楽新歌劇の発生地たらんことを」(原文は仮名部分カタカナ)と定礎文を書いた味原校舎から、まさに関西のオペラが産声をあげた瞬間であった。
学校をあげてのオペラ活動はこの後も、ますますさかんとなり、1989年(平成元年)のザ・カレッジ・オペラハウス建設、さらには、「20世紀オペラ・シリーズ」をはじめとする企画色の強いオペラのシリーズ公演という結実をもたらすことになる。

出演者(プログラムより)
プログラムには名前の記載がないが、主役のトゥリッドゥに、当時本科二十期生の五十嵐喜芳が抜擢され、ダブルキャストで出演している。五十嵐はのちに、藤原歌劇団音楽監督、新国立劇場オペラ芸術監督などを歴任するわが国有数のテノール歌手となったが、「あの出会いがなければ、自分のオペラ人生はなかっただろう」とこの時のことを述べている。

大阪音楽高等学校生徒第一合唱隊(プログラムより)
味原校舎屋上で撮影したものと思われる

出演者全員による記念撮影

関西音楽の歴史

プログラム表紙

5月13、14日 牧嗣人歌劇団結成公演 毎日会館(現・国民会館)
《カルメン》、《椿姫》、《ボリス・ゴドノフ》より抜粋 関西人戦後初のオペラ公演
5月29〜31日 長門美保歌劇団関西初公演 プッチーニ《蝶々夫人》(大阪歌舞伎座)
昭和21年11月に東京で旗揚げした長門美保歌劇団(発足当時は長門美保歌劇研究所)の関西における初公演で、この頃文化事業に力を入れ出していた新大阪新聞社の主催で行われた。以後、東京での藤原、長門歌劇団の競演が関西でも繰り広げられることとなる

6月19〜21日 関西音楽研究集団第一回公演 マスカーニ《カヴァレリア・ルスティカーナ》
19日、20日:毎日会館(現・国民会館)21日:同志社栄光館
総監督:大田黒元雄 中川牧三指揮・訳詞(竹内忠雄共訳) 東京フィルハーモニー・オーケストラ

前列右からルチア(松本寛子)、サントゥッツァ(小島幸)、ローラ(市來崎義子)、後列右アルフィオ(横井輝男)、左トゥリッドゥ(竹内光夫)小島の実弟の竹内以外は全員本校教員(プログラムより)
11月23日 第一回全日本合唱コンクール大会開催(神田共立講堂)日本合唱連盟・朝日新聞社主催
イタリアオペラと中川牧三
《カヴァレリア・ルスティカーナ》は、戦後、関西オペラ界の本格的なスタートとなった記念すべき公演であった。
関西音楽研究集団がのちの関西歌劇団へと発展することになる。
この上演の指揮や歌詞翻訳を手がけた中川牧三(1902〜2008)は京都の富裕な家庭に育ち、戦前、近衛秀麿とともに欧州各地におもむき、またイタリアで本格的にオペラを学んだ経歴をもつ。当時は本校の声楽教授であった。
戦前、歌手として活躍するも、戦時には陸軍将校となり、上海では陸軍情報部で、文化宣伝工作に携わっていた。朝比奈隆を上海交響楽団に指揮者として呼びよせたのは中川であった。オペラの中川、バレエの小牧正英、そして朝比奈は上海で交流の機会をもっていたことになる。
戦後、中川は、大阪音楽学校の声楽教授となったことから、この公演は中川のもと、大阪音楽学校の教員が主要キャストをつとめ、学生が参加することとなった。ベルカント唱法の普及につとめ、数多くのイタリア・オペラの訳詞を手がけ、またイタリアからのオペラ歌手の招聘や、声楽コンクールの主催など105歳の生涯をオペラ振興に捧げた。

上海時代 後列左より小牧正英、朝比奈隆、中川牧三 前列は上海バレエ・リュスのメンバー(上海交響楽団資料室所蔵)
雑誌の復刊、創刊相次ぐ
終戦後、世の中が落ち着きを取り戻すにつれ、音楽系雑誌の復刊、創刊が相次いだ。
関西地域では、大阪朝日会館や大阪毎日会館が独自に発行した刊行物も含めてバラエティに富む雑誌から当時の音楽、バレエ、オペラなどに対する熱気を読みとることができる。
<関西発行>

1949年(昭和24年)『DEMOS』11月号(大阪朝日会館)

1948年(昭和23年)『毎日マンスリー』第9集(毎日会館 現・国民会館)

1950年(昭和25年)月刊『ミュージック・カルチュア』3月号(関西音楽人連合)

1949年(昭和24年)『カルチュア』12月号(神戸新聞社)

1949年(昭和24年)月刊『芸能新聞』第4号(芸能新聞社)

1948年(昭和23年)『ラジオオーサカ』No.11(大阪放送文化協会)

<東京発行>

1948年(昭和23年)『音楽之友』2月号(音楽之友社)

1950年(昭和25年)『音楽芸術』3月号(音楽之友社)

1950年(昭和25年)『バレエ』No.1(バレエ社)

1950年(昭和25年)『バレエ旬報』第1号(日本バレエ普及会)

隆盛きわめるオペラ界
戦後の数年間、日本のオペラ界は今日までを通じて、最高の活況を呈していたといえる。その主役を担っていたのは、1934年(昭和9年)の創立以来、数々のオペラの舞台上演を行っていた藤原歌劇団である。わが国の戦中最後のオペラ上演となったのは、同団が1944年(昭和19年)2月27日に大阪の北野劇場で行った創立10周年記念公演のベートーヴェン《フィデリオ》(本邦初演の関西公演)であるが、戦後わが国初のオペラ上演となったのも同団の1946年(昭和21年)1月27~31日に東京の帝国劇場で行った、ヴェルディ《椿姫》の公演であった。
そして、その藤原義江とも共演を重ねていたソプラノの長門美保が1946年11月2日に長門美保歌劇研究所(のちに長門美保歌劇団と改称)を旗揚げし、東京では一時期この2つの歌劇団が競うように華やかな活動を繰り広げていた。藤原歌劇団は戦後、音楽部門の強化を図った東宝の専属となり、かたや長門美保歌劇団は戦中に藤原歌劇団を支えていた松竹と提携して、お互い大きな後ろ盾をもとに数多くの公演を重ねていた。1演目につき昼夜公演を含めて20数回の公演を行うなど、現在では考えられないほどの公演回数であった。
こうしたオペラ界の隆盛の背景には、戦時中に抑圧されていた人々の活動が自由になり、文化的なものを渇望していたことや、連合軍総合指令部の指導下に入ったNHKが当時全国民の唯一最大の娯楽であったラジオで「放送歌劇」などのオペラの番組を数多く放送したことなどがあったようである。そして公演回数の多さについてはオペラが好まれたこと以外に、戦中末期からの名残で最高100%~200%という高率な入場税が要因の一つとして挙げられる。赤字を少しでも減らす方法として、公演回数を増やし、1回あたりの経費を抑えようという苦肉の策でもあったのである。この時期一気に地方公演の回数や範囲が拡大したのも、オペラの普及による地方からの要請とともに、在京の歌劇団にとっては自分たちに経費負担がなく、収入になるというメリットも大きかったのではないだろうか。
理由はともあれ、藤原歌劇団は関西における戦後初のオペラ公演となる1947年(昭和22年)1月16~21日のヴェルディ《椿姫》公演以来、1年に2~3回のペースで毎年来演し、東京で本邦初演した作品を関西で公演するなど精力的に活動を行った。これに1948年(昭和23年)の関西初公演以降、長門美保歌劇団が加わって東京での両歌劇団の競演が舞台を関西に移して展開されていたのである。そしてこのことは関西の演奏家たちにとって大いなる刺激になり、自分たちも関西人によるオペラを上演したいという動きに発展していく。
東京ではこの後、1952年(昭和27年)に当時最も活躍していた柴田睦陸、中山悌一ら若手の声楽家たち16人が新たにオペラの団体を立ち上げる。それまでのわが国のオペラ活動を第一期として、さらに発展していくことを使命とする次世代の集団であるという意味から「二期会」と名付けられた。
1947年(昭和22年)11月15~19日 藤原歌劇団 ヴァーグナー《タンホイザー》本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)
1948年(昭和23年)5月29~31日 長門美保歌劇団 プッチーニ《蝶々夫人》(大阪歌舞伎座)

出演者(プログラムより)

長門美保歌劇団の関西初公演
プログラム表紙

出演者(同プログラムより)

蝶々夫人に扮した長門美保(同プログラムより)

1948年(昭和23年)9~10月 長門美保歌劇団 サリヴァン《ミカド》日本人向け本邦初演の関西公演(昭和21年に外国人のソリストによる進駐軍向けの上演はあり)
9月29、30日:京都南座 10月6日:大阪歌舞伎座

プログラム表紙

同プログラムより

1949年(昭和24年)4月1~3日 藤原歌劇団創立15周年記念公演 モーツァルト《ドン・ファン(ドン・ジョヴァンニ)》本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)
精緻なアンサンブルを聴かせなければならないモーツァルトの作品は演奏が難しく、なかなか上演に至らなかったという。

プログラム表紙

第1幕 ドン・ファンとツェルリーナの二重唱(同プログラムより)

1949年(昭和24年)12月17~21日 藤原歌劇団 チャイコフスキー《エフゲニ・オネーギン》本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)

プログラム表紙

出演者(同プログラムより)


1949年(昭和24年)

大阪音楽大学の歴史

3月 大阪音楽高等学校、専攻科、生徒募集
声楽科10名、ピアノ科10名、管弦学科5名、教育科15名、2、3年(編入)、専攻科若干名募集。専攻科は将来設置する大学の前期2年に該当し、本高等学校卒業生は無試験で入学できた。大学設置と同時に、大学に編入されるものとした

3月18日 大阪音楽高等学校第一回卒業式
組織変更の過渡期であり、39名の新制音楽高等学校第一期生とともに、大阪音楽学校第二十期生23名、大阪音楽学校専攻科第十五期生16名が卒業した

5月14日 永井八重子先生謝恩音楽会(大手前会館)

7月 生徒募集広告(明星学園第一回音楽研究演奏会プログラムより)
当時は準備科、選科といったものがあった

永井ピアノ試作(昭和23年〜24年頃)
戦後のピアノ不足を補うために、永井校長が廉価なピアノを考案、製造を試みた

K.NAGAI AND SON PIANOと刻印されている

当時の住宅事情を考え、奥行きを130cmに縮小して製造

幻のK.NAGAI&SONピアノ
戦時中に疎開させていたドイツ製等のピアノが疎開先で焼失し、皮肉にも終戦後学校に残ったのは、大半が酷使されたボロボロのピアノばかりであった。永井校長は戦後の生活にも困窮しているなか、音楽を愛して勉強しに来ている生徒たちに一円でも安く、そして当時の住宅事情からできるだけ小さいグランドピアノをどうしても与えてやりたいと、自らピアノ製造を思いつく。費用の大半を永井校長が出資し、一部を三男の誠が負担して、長男潔の息子で孫にあたる一(はじめ)と同県人で楽器製作も行っていた山根という人物が、永井校長が考案したピアノの試作にあたった。
そのピアノとは、少しでも廉価に製作するため徹底的な廃物利用が考えられ、鍵盤に青竹の皮、響鳴板に電柱の廃材である桧、ピアノ線の代わりに鉄線を焼いた鋼鉄を用い、アクションはおもちゃのピアノのような卓上ピアノ形式によるというものであった。
そのころ潔の家にあったスタインウェイのピアノのサイズを測り、高さと幅はそのままに、奥行きだけ130cmに縮小して製造することを決め、試行錯誤が始まった。しかし象牙の代わりに鍵盤に貼った青竹の皮は丸みがきつすぎることや、竹の繊維で指に刺が刺さる怖れがあるため断念。ピアノ鍵盤用のセルロイドで白鍵を作り、黒鍵部分は雑木で作って黒いラッカーで塗装した。アクションもやはり卓上のピアノ形式は従来のグランドピアノの形式に変更を余儀なくされるなど、永井校長の最初の思惑とは少し違ったが、何とか1台のピアノを完成させた。
だが実際の商品化となると、必要な材料・部品、職人などを大阪の地でそろえるのは困難なためかえってコスト高になってしまい、ピアノ製造をしても採算が合わず無駄であるという結論に達したという。当時試作を行った一は後日この時のことを、「現在ではわかりすぎることではあったが、祖父の音楽を志す生徒たちに対する深い愛情の表れであって、一笑に付すことはできない。」と語っている。現在そのピアノの行方は不明で、残っているのは写真のみである。

K.NAGAI&SONピアノ

永井校長がその後、教育雑誌に寄せた文章(昭和26年3月1日発行『教育音楽』)

関西音楽の歴史

1月15日 関西交響楽団第十七回定期演奏会《魔弾の射手》(演奏会形式)
朝比奈隆指揮 阿部幸次、小島幸、横井輝男ほか出演 コーラスはアサヒ・コーラス、ジュピター・コール

朗読により物語の筋を運び、演奏を続けていくという演奏会方式による全曲演奏で、関西交響楽団としては初の試みであった
2月 関西オペラ協会発足決定
4月1日 同志社女子大学学芸部音楽科設置
4月1〜3日 藤原歌劇団公演 《ドン・ファン》(ドン・ジョヴァンニ)(大阪朝日会館)
創立15周年記念・本邦初演の関西公演 マンフレッド・グルリット指揮 東京交響楽団
4月16日 関西交響楽団、新設の大阪市民文化賞受賞
5月31日 東京音楽学校、東京藝術大学音楽学部に
6月 関西作曲家協会設立
関西の作曲家29名により結成。幹事に大澤壽人、高橋半、宮原康雄、斎藤登の四氏就任
6月18、19日 関西オペラ協会第一回公演 ヴェルディ《椿姫》(大阪朝日会館)
朝比奈隆指揮・訳詞 関西交響楽団 中西武夫演出 関種子、小島幸(ヴィオレッタ)、阿部孝次(アルフレード)ほか

7月には初の地方公演として松江市、米子市で再演。山陰地方では初めての本格的オペラの上演となった
(関西歌劇団提供)

第一回例会プログラム

10月29日、30日 小牧バレエ団出演関西実験劇場第二回公演《悲愴交響曲に依る“受難”》本邦初演(大阪朝日会館)
29日昼夜2回 朝比奈隆指揮 関西交響楽団

11月24日 関西勤労者音楽協会議会発会式・第一回例会開催(大阪朝日会館)

指揮:マンフレッド・グルリット 東宝交響楽団 藤原歌劇団合唱部 谷桃子バレエ団ほか

12月17日 藤原歌劇団公演 チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》本邦初演の関西公演
~21日 計6回(大阪朝日会館)
大阪勤労者音楽協議会より生まれた労音
労音(勤労者音楽協議会)のさきがけとなったのは、大阪勤労者音楽協議会という組織であり、1949年(昭和24年)11月に大阪で結成された。勤労者の鑑賞団体をつくろうという目的から朝日新聞労組事務所で準備委員会が開かれ、大阪朝日会館で第一回の例会(賛助出演、笹田和子)が開催された。入場税のために割高なオーケストラやバレエなどの公演を団体割引によって鑑賞できるようにしようという会員制のシステムであった。
会員数は当初の470名から翌年4月には2200名、さらに2年後には7500名と、年々増加し、朝日会館、毎日会館、中央公会堂などで開催されるバレエや演奏会が会員に提供された。
また、スタート時の大阪労音から神戸労音、京都労音といった近隣地域への広がりもみせ、労音の鑑賞システムは全国に順調に拡大する(最大時、会員65万人)。しかし社会情勢の変化などにより、1970年代より急速に組織は衰退した。
1950年代、労音会員には割安なチケット以外にも、各種音楽講座、レコード鑑賞会など、戦後の関西に洋楽ファンを根づかせる役割も果たしていた。安定した観客動員はオペラの長期公演やミュージカルの上演、また邦人作曲家による「創作オペラ」の公演を可能にした。

1949年(昭和24年)11月24日 大阪勤労者音楽協議会発会式 配布資料

1950年(昭和25年)『勤労者音楽』(仮称)第一号 関西勤労者音楽協議会

関西オペラ協会設立
前年、大阪音楽高等学校の声楽教員が中心となった関西音楽研究集団が初めて関西人による本格的なオペラの舞台公演《カヴァレリア・ルスティカーナ》を行い、大阪・京都での3日間昼夜2回の公演は成功に終わった。しかし継続的にオペラの公演をするということになると、オーケストラ、良き指導者、そして何よりも莫大な資金が必要となり、なかなかその先に進むことができずにいた。
そんな中、関西交響楽団を率いる朝比奈隆が「関西でもオペラをやろう、オペラ運動を起こそう」と呼びかけ、大阪朝日会館の後押しもあり一気にオペラ団体設立の機運が高まった。当時の朝比奈は2年前の1947年(昭和22年)に関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)を結成し、オーケストラの次はオペラだとの思いを抱いていた。オーケストラを作り、オペラをやりたいというのは朝比奈の若い頃からの念願だったのである。また大阪朝日会館にとっても藤原歌劇団などの在京の団体の公演をするのに、この頃150%という高率な入場税に加え高額な旅費、宿泊費などを払わなければならず、最初から赤字予算で計画を立てねばならないという苦しい状況があった。関西にオペラ団体ができれば、少なくとも旅費と宿泊費という経費は圧縮できるのである。
1949年(昭和24年)1月下旬頃、大阪朝日会館に関西音楽研究集団を中心とする歌手たちが召集され、朝比奈、関西交響楽団の野口幸助事務局長、大阪朝日会館の十河厳館長らによる話し合いが持たれた。関西でオペラをやりたいという歌手たち、オペラがなければ音楽が完成したとは言えないとの信念を持つ朝比奈、経費面だけではなく、関西楽壇を振興させていくためには関西にオペラ団体が必要であると考える朝日会館、それぞれの思惑が一致し、関西オペラ協会の発足が決定される。
第一回公演の演目はヴェルディのオペラを最も高く評価していた朝比奈により《椿姫》と決定され、この年の6月18、19日に大阪朝日会館にて朝比奈指揮、関西交響楽団の演奏で開催された。この公演に向け、朝日会館屋上の東北隅にある練習場で稽古を行っていたある日、偶然関西公演に来ていた俳優の宇野重吉が現れ、歌手たちの演技のまずさにたまりかねて指導を行ったことがあるとのエピソードが残っている。ほとんどの歌手が演技をすること、指揮棒を見ながら動くことは初めてという状態であった。その評価については昭和24年6月20日の朝日新聞紙上に厳しい指摘もあったが、「どうしても関西に関西人のオペラを持たずにはいられなかったという情熱がにじみ出ている。」とあり、この公演にかける関係者全員の熱意は伝わったようである。尚、上演は朝比奈の「オペラは民衆的であり国民的である以上、どうしてもその場所の国語でなければならない」との考えにより、朝比奈自身の訳詞によって行われ、以後全ての上演作品は朝比奈が訳詞を手がけている。
のちに関西歌劇団と改称されるこの関西オペラ協会は、1950年(昭和25年)に設立された社団法人関西交響楽協会に関西交響楽団とともに所属し、1986年(昭和61年)に同協会より独立するまで密接な関係が保たれた。約40年間、朝比奈隆、関西交響楽団とともにオペラ活動を展開していくことになる。

関西音楽研究集団会員証 
昭和23年6月19~21日の第一回公演《カヴァレリア・ルスティカーナ》の日に使用されたと思われる。

「関西オペラ協会」発足決定を伝える記事(昭和24年2月25日 大阪朝日会館発行「DEMOS」第7巻第3号)

1949年(昭和24年)6月18、19日 関西オペラ協会第一回公演 ヴェルディ《椿姫》(大阪朝日会館)
出演者(プログラムより)


1950年(昭和25年)

大阪音楽大学の歴史

1月20日 永井幸次、校長と兼務の理事長職を退任 後任に水川清一就任
3月5日 楽壇五十年 永井幸次先生を囲む音楽会(大阪市中央公会堂)
新大阪新聞社主催で昼夜2回にわたり開催された。本校教員、生徒、卒業生と名だたる東西の音楽家たちが無償で出演し、いずれも満員の盛況ぶりであったと伝えられる

昭和25年3月6日 新大阪新聞

永井校長自ら、この日のために作曲した混声合唱《真善美》の指揮をとり、出演者全員で演奏した

昭和25年度音楽高等学校新入生(前列右から4人目は担任の横井輝男教員)

5月26日 大阪音楽高等学校春季演奏会(大阪朝日会館)

7月5~9日 演奏旅行(香川、徳島、高知県)
教員と3年生、専攻生により、9カ所で計13回の演奏会を行った
香川県公会堂での演奏会の前売券。昼は学生、夜は一般対象に2回公演を行っている。一般は前売り50円、当日70円、学生は前売り40円、当日50円

徳島における教員のみの演奏会 
左から横井輝男、市義崎義子、小島幸、木村四郎

高知公演を伝える新聞記事(昭和25年7月7日 高知新聞)

高知公演での集合写真

9月30日「大阪音楽短期大学」設立申請

チケット

11月19日 大阪音楽大学設置基金募集文化祭(大阪市中央公会堂)
本校初の文化祭
12月25日 新大阪新聞社主催 クリスマス大音楽会に出演(松竹座)
小橋潔教員の指揮で生徒たちが聖歌やハレルヤコーラスなどを歌い、教員の木村四郎、横井輝男も二重唱を演奏。平岡養一、牧嗣人、辻久子らと共演した
理事長交代
1950年(昭和25年)、年明け早々、永井校長は昭和8年に本校が財団法人になって以来の理事長職との兼務を退く。後任の理事長は水川清一であった。水川と永井校長との出会いは昭和22年秋頃にさかのぼる。その頃音楽高等学校への許認可申請に必要な運動場の確保のため、永井校長が、当時大阪中央放送局長であり、新制高等学校の認可の可否を審議する委員であった水川を訪ねて行ったのである。この時、水川の働きかけがあり、本校近くの土地の借用契約が成立して、音楽高等学校への認可を受けることができた。
また、その2年後の昭和24年に、大学設置に向けての条件整備の考え方をめぐって校内を二分する意見の対立が生まれ、教授19名が辞職宣言をするなど一時校内が混乱した。この事態を収拾したのも水川であった。、永井校長はそんな水川の手腕を買って新たな理事に迎え入れた。
そして翌年、自分は教育に専念し、経営は水川に委ねることとした。永井校長が水川に寄せる信頼の強さは水川の「私が最も敬服した点は『経営の方は引き受けてくれ』とのお話があってから、一度も口出しをせられなかったことである」との言葉からもうかがえる。そして水川は永井校長について、こうも語っている。「永井校長が人間として、私の最も好きな人であったということは、私が学校・大学に対して積極的な意欲をもつ因由になったし、私の人生の有難い思い出ともなった」(大阪音楽大学『永井幸次先生の思い出』(1966年))。
こうして永井幸次が学長として昭和40年、91歳でその生涯を閉じるまで、二人の間には強い信頼関係が保たれ、二人三脚で本校の舵取りをしていくことになるのである。

水川清一理事長
永井学長亡き後、二代目の学長に就任。1980年(昭和55年)に亡くなるまで、理事長との兼務を果たす。

理事長交代当時の水川理事長と永井校長(昭和25年3月23日 卒業生職員生徒による卒業記念音楽会)

永井幸次楽壇五十年
永井幸次が1907年(明治40年)に大阪に赴任した当時は、荒野に一人佇んだ気持ちであったという。学校の音楽教育といえば五線譜ではなく数字譜で口うつしの口授法、発声は地声を張り上げるばかりで、その有様を目の当たりにしたとき、関西の音楽教育に身を捧げようと決心したとされる。それ以前の神戸、鳥取 などでの教師生活も含めて50年、一貫して西洋音楽の普及と向上に尽くし、それまでは楽壇は東京だけのものと言われていた常識を破り、関西の楽壇を確立したその労をねぎらい、功績をたたえようと、昼夜2回にわたる演奏会が新大阪新聞社の主催で開催された。関西の名だたる演奏家はもちろん、東京音楽学校、武蔵野音楽学校、国立音楽学校、神戸女学院音楽部等の代表者も一堂に会しての演奏会で、全員無償で出演したという。
教師になりたての頃、良い教材がなく、自ら出版した教科書や楽譜が各地の学校で使われるようになった。夏には毎年、遠くは四国、九州にわたる西日本の音楽教育者を集めて講習会を開き、新しい教育法を伝授した。そして本校で教育を受けた生徒たちが、また各地で音楽を指導するようになった。これらのことを考えると、非常に多くの人たちが直接、間接的に永井の指導を受けていたことになる。

プログラム 東西の著名な演奏家が名を連ねている

当時75歳の永井幸次(「楽壇五十年 永井幸次先生を囲む音楽会」プログラムより)

音楽会当日、レイの贈呈を受ける永井幸次(昭和25年3月6日 新大阪新聞)

短期大学設立に向けて
1950年(昭和25年)春、水川新理事長をはじめ、組織の陣容も新たに、教職員、同窓会、父兄会が一体となって、宿願である短期大学設立に向けて動き出す。問題はまたしても運動場探しであった。高等学校設置の際に一旦借用契約を交わした土地にはすでに家屋が建ち、使えなかったのである。苦慮した結果、北隣の大阪府立高津高等学校裏に空き地を見つけ、同校校長の仲介も得て、新たに借地契約を結ぶことができた。9月30日、「大阪音楽短期大学」設立を申請し、文部省からは「追って適地を見つける」ということで内諾を得る。この年の4月に短期大学制度が発足したばかりで、当時は短大設置が奨励されていたのも追い風であった。
母校のさらなる飛躍のために同窓会と父兄会も立ち上がった。同窓会主催、P.T.A.後援で、11月19日に「大学設置基金募集文化祭」を開催したのである。大阪市中央公会堂を会場に、音楽会、演芸会、ダンスパーティー、模擬店とバラエティに富んだ内容であった。演芸会には二代目春団治など当時の人気芸人を招き、音楽会は合唱以外、すべて教員と卒業生が演奏を行った。この時どれほどの基金が集まったのかは定かでないが、これが本校初の文化祭であった。

大学設立を呼びかける広告(昭和23年6月19~21日「関西音楽研究集団第一回公演《カヴァレリア・ルスティカーナ》」プログラムより)

模擬店チケット

大阪音楽高等学校職員組織一覧表(昭和25年5月26日「大阪音楽高等学校春季演奏会」プログラムより)

昭和25年11月19日「大学設置基金募集文化祭」音楽会 プログラム

関西音楽の歴史

4月14日 朝比奈隆、辻久子ら15名、初の兵庫県音楽文化賞受賞

4月19日 関西交響楽団改組 社団法人関西交響楽協会創立
改組記念・第三十回演奏会プログラム

東京日比谷公会堂での公演を関西にて再演(宝塚交響楽団)
(昭和9年9月14日 大阪朝日新聞)

7月2日 東西三大交響楽団合同大演奏会(スポーツセンター)
毎日新聞社が主催した関西交響楽団、東京フィルハーモニー管弦楽団、東宝交響楽団の合同演奏会で、関西交響楽団初の東京公演であった。7月15日には甲子園球場で再び合同コンサートが開催されている

甲子園球場にて

8月1日 オペラ・パヴオ座関西初公演 スッペ《ボッカチオ》(神戸聚楽館)
朝比奈隆指揮 関西交響楽団
9月2、3日 同(北野劇場)

6月25日 朝鮮戦争始まる 

10月14、15、17日 ラザール・レヴィ ピアノ演奏会
14、15日:北野劇場 17日:京都松竹座
戦後初の外来演奏家であった

12月26日、27日 関西交響楽協会、推薦演奏会開催(大阪朝日会館)
関西交響楽協会が関西楽壇発展に寄与するためとして、将来有望な新人演奏家を推薦し、オーケストラと協演できる演奏会を企画した


1951年(昭和26年)

大阪音楽大学の歴史

2月4日 短期大学設立記念大音楽会(大阪市中央公会堂)
前年に文部省より内諾を得たということで2月から生徒募集を始め、それに合わせたのか本認可前に開催している。賛助出演の関西交響楽団が朝比奈隆指揮でブラームス《大学祝典序曲》などを演奏

ポスター

3月5日 学校法人大阪音楽短期大学への組織変更認可 水川清一理事長就任
3月7日 大阪音楽短期大学設置認可(音楽科-作曲楽理・声楽・器楽専攻)
3月 昭和25年度卒業式
新制音楽高等学校生徒との合同卒業式が3年続いたが、この時の第二十二期生をもって、大阪音楽学校最後の生徒を送り出し

3月31日 教職課程認定(中学校教諭二級普通免許状=音楽)

4月1日 大阪音楽短期大学開学 永井幸次学長就任(高等学校校長兼任)
5月5、6日 関西交響楽団ベートーヴェン・チクルス(第5夜)に出演(毎日会館)
朝比奈隆指揮《交響曲第9番》の合唱団として、本学学生・高等学校生徒がグリーン・エコー、ジュピター・コールとともに参加。毎日新聞社主催
5月27日 短期大学楽友会演奏会(清水谷高等学校講堂)
短期大学初の演奏会。学生・教員に加え高等学校生徒も合唱で出演

10月26~28日 短期大学初の演奏旅行(山陰地方)

11月4日 第一回短期大学秋季大演奏会(大阪朝日会館)
朝比奈隆指揮の関西交響楽団が特別出演。高等学校生徒、卒業生たちもベートーヴェン《交響曲第9番》の合唱で参加している。これが短期大学時代の定期演奏会の初回となる

高等学校とともに新たに短期大学の看板がかけられた味原校舎

プログラム

短期大学開学
前年の文部省からの内諾を受け、本認可を受ける前に早くも2月1日より生徒募集を開始した。専攻は作曲楽理科・声楽科・器楽科の3つで、定員40名であった。そして2月4日には「短期大学設立記念大音楽会」と題し、大阪市中央公会堂で演奏会を開催した。
この演奏会直前の1月31日、永井校長は「卒業生諸君に告ぐ」という文章を配付している。その中で永井は、「当校も漸く待望の大学になりました」と卒業生たちにいち早く短期大学の設立を伝え、校舎改築や生徒勧誘への協力を要請している。そして永井幸次作詞作曲《祝歌》の合唱譜が添えられ、卒業生と生徒あわせて4、5百人の大合唱で演奏したいと考えているので、最後の練習に来て欲しいという希望も記されていた。当日は校長の指揮のもと、卒業生たちも歌ったのかもしれない。
3月5日、財団法人大阪音楽短期大学への組織変更が認可され、3月7日、正式に昭和26年度からの短期大学設置の認可がおりた。認可条件は図書室および研究室の整備、一般教養自然科学ならびに専門の機械器具と教員組織の増強など、2年以内に必要な整備拡充を行って、短期大学としての完成を期することであった。
教職課程の設置についても教育実習指導の責任者を明確にし、必修、選択科目の配列と履修方法、教員組織の整備を条件に認可された。3月末日のことである。
こうして4月1日、短期大学は開学した。学長には永井幸次が就任し、高等学校校長と兼務することとなった。第一期生は作曲2名(定員3)、声楽16名(定員15)、器楽22名(定員22)の40名。器楽は全員ピアノ専攻であった。
科目は大きく一般教養、体育、専門(理論・実技)、教職に分かれるが、当時の専門の開講科目はピアノ専攻を例にとると次の通りであった。
  • 理論=音楽史、音楽美学、和声、楽式、音響学、対位法、演奏原理
  • 実技=ソルフェージュ、合唱、ピアノ、合奏、卒業演奏
声楽専攻はこれに独唱、作曲専攻は管弦楽法が加わる。一般教養には、数学、物理などもあった。

短期大学初の生徒募集(昭和26年2月4日 短期大学設立記念大音楽会チラシより)入学試験期日は3月28~30日となっており、開学直前のことであった

1月31日 永井校長が卒業生に配った文章と楽譜
※クリックで拡大します。

プログラム表紙

プログラムより
朝比奈隆指揮の関西交響楽団が特別出演している

5月27日 短期大学楽友会演奏会プログラム
短期大学初の演奏会

学校法人大阪音楽短期大学への組織変更の認可書

11月4日 第一回短期大学秋季大演奏会プログラム

関西音楽の歴史

2月19日 大阪労音合唱団発足
本学横井輝男教授が講師を務める

3月4日 藤原歌劇団 J.シュトラウス《ジプシー男爵》本邦初演の関西公演(毎日会館)
マンフレッド・グルリット指揮 関西交響楽団

大阪朝日会館にて(昭和26年3月25日 朝日新聞)

3月24日 山田耕筰楽業五十年記念大音楽会(大阪朝日会館)
山田耕筰が自作のオペラ《夜明け》を指揮し、関西交響楽団が演奏した。藤原義江らの演奏、および朝比奈隆も自らヴィオラを弾いて関西の音楽ファンを感激させたという
5月1日 梶本音楽事務所発足
野口幸助音楽事務所閉鎖により同所支配人であった梶本尚靖が音楽事務所を開いた

8月1日 日本交響楽団、NHKの支援を受けNHK交響楽団と改称
11月25日、京都劇場にて改称後初の関西公演を行う。指揮は専任指揮者となったクルト・ウェス

8月14日 藤原オペラ・関西オペラ合同歌劇名曲の夕(大阪球場)
朝比奈隆指揮 関西交響楽団 アサヒコーラス

9月1日 民間ラジオ放送開始
試験放送でわが国の民放第一声を放ったのは、新日本放送(NJB)であった

新日本放送社屋(『NJBの四年』より)
梅田の阪急百貨店屋上にあった
9月8日 サンフランシスコ講和条約締結

9月20日 ユーディ・メニューイン関西初公演(大阪朝日会館)
21~23日:同館 10月5、13日:京都劇場 14日:宝塚大劇場

チラシ

11月16~18日 藤原歌劇団 トーマ《ミニョン》本邦初演の関西公演(毎日会館)
マンフレッド・グルリット指揮 関西交響楽団

12月12日 NHK大阪放送合唱団第一回定期演奏会(大阪朝日会館)

12月26日 第1回全関西吹奏楽コンクール(大阪朝日会館)
戦後復活最初のコンクール。全関西吹奏楽連盟(現・関西吹奏楽連盟)主催、朝日新聞社後援。学校の部(中学・高校)12、一般の部4の合計16団体が参加
民間ラジオ放送の開始
1950年(昭和25年)、“電波三法”といわれる戦後日本の電波・放送行政の根幹を定めた法律が施行され、民間放送設立への道が開かれた。翌年4月に全国14地区16社に日本で初めて民放の仮免許が与えられることとなる。14地区のうち、東京と大阪地区のみ2社ずつに事業が認められ、大阪では新日本放送(現・毎日放送)と朝日放送が選ばれた。
1951年(昭和26年)8月15日、新日本放送はサービス放送と称し、試験放送を開始。毎日正午から4回、1時間ごとに数分間のニュースと、その他の時間には音楽を放送した。これがNHK以外の放送局から放たれた第一声となる。この新日本放送(NJB)というのは、終戦直後からいち早く民間放送事業を興すべく奔走してきた毎日新聞社に京阪神急行電鉄株式会社(現・阪急電鉄株式会社)、日本電気株式会社(NEC)が協力して昭和25年12月に設立された会社である。ここに至るまでの道のりは決して平坦ではなかったというが、わが国初の民間放送を大阪から行うことをめざしてきた同社にとって、まさに悲願がかなった瞬間であった。本放送を開始したのは9月1日、名古屋の中部日本放送(現・CBCラジオ)に遅れること5時間半後の正午のことであった。
次いで関西では朝日放送、京都放送(現・KBS京都)、神戸放送(現・ラジオ関西)が開局し、昭和27年4月にはNHKの独占だった放送業界に民放4局が並立することとなった。これらのラジオ放送を通じて、また新聞社とともに放送局も様々な演奏会を主催するようになり、洋楽はますます身近なものになっていくのである。

本放送直前の8月29日に行われた前夜祭ポスター
NJB交響楽団とあるが、NJBジャズオーケストラなど専属の楽団も編成していた

1951年(昭和26年)10月18日 新日本放送第1スタジオで「東洋紡サンデーコンサート」を録音する指揮の朝比奈隆と関西交響楽団

同年10月22日 新日本放送がNHKに競り勝ち、初来日のエフディ・メニューインの生演奏を独占放送


1952年(昭和27年)

大阪音楽大学の歴史

3月16日 第四回高等学校卒業演奏会(本学講堂)

6月3日 短期大学就任披露演奏会(三越劇場)
メゾソプラノ木村(のち桂)斗伎子、ソプラノ樋本栄、ピアノ森田(のち宇都宮)淑子、右近たい子の新任教員4名による演奏会

プログラム

7月13~17日 関西オペラ第5回公演《ラ・ボエーム》に出演(大阪朝日会館)
プログラムに記載はないが、短期大学声楽科の学生約10名が合唱で出演。昭和28年創刊の『楽友』第一号に「関西オペラ《ラ・ボエーム》合唱出演随想」と題した学生の寄稿文が掲載されており、この時の様子を「勉強しながら楽しめて嬉しかった」と綴っている

公演写真(関西歌劇団提供)

7月11日 高等学校演奏部第一回研究発表会
自治会演奏部が高等学校開校以来5年目にして初の生徒自身による発表会を開催

11月6~10日 短期大学演奏旅行(四国地方)

11月22日 高等学校文化祭
この年に作曲活動を行う創作研究部が発足。演奏部のオーケストラ伴奏で新作が披露された。この時は未完成で、一部だけを演奏した3年生の作品、歌劇《竹取物語》が昭和30年に学生のみによる創作オペラとして完全上演されることとなる

12月13日 第二回短期大学選科演奏会(本学講堂)

12月17日 第二回短期大学秋季演奏会(毎日会館)

関西音楽の歴史

プログラム

1月30日~2月6日 藤原歌劇団 團伊玖磨《夕鶴》初演(大阪朝日会館)
團伊玖磨指揮 関西交響楽団 朝日新聞文化事業団主催
第四回毎日音楽賞特別賞受賞
2月 二期会(現・東京二期会)発足
旗揚げ公演はプッチーニ《ラ・ボエーム》
大阪府民劇場賞創設
平成6年に大阪舞台芸術賞と改称、平成17年度で廃止

4月 京都市立音楽短期大学(現・京都市立芸術大学音楽学部)設置
全国初の公立音楽大学が誕生
大阪学芸大学特設音楽課程設置(現・大阪教育大学教養学科芸術専攻音楽コース)
4月5日 日本音楽学会設立
9月20日、相愛女子短期大学にて関西支部第1回の学会開催

7月18日 産経会館落成
翌、昭和28年に映画上映と貸館が中心となった大阪朝日会館に代わって、数多くの演奏会が開催された

公演写真(昭和28年『関西交響楽団目録』より)

8月8日 たそがれコンサート「千人の合唱と交響楽の夕べ」(西宮球場)
朝比奈隆指揮 関西交響楽団 プロコフィエフ《ロミオとジュリエット》より 本邦初演

プログラムより

9月7、8日 ブタペスト弦楽四重奏団演奏会(産経会館)
わが国初の海外からの弦楽四重奏団が関西初公演を行った
9月20~22日 貝谷八百子バレエ団 《シンデレラ》関西初公演(産経会館)
朝比奈隆指揮 関西交響楽団
10月4日 アルフレッド・コルトー関西初公演(大阪朝日会館)
5、6日:同会場 18日:宝塚大劇場 19日:京都劇場 11月26日:大阪朝日会館

チラシ

京都公演チラシ

プログラム

10月21~25日 ソニア・アロワ、小牧バレエ団合同公演《眠れる森の美女》本邦初演(産経会館)
朝比奈隆指揮 関西交響楽団
11月24~30日 文部省芸術祭オペラ公演 モーツァルト《フィガロの結婚》(産経会館)
近衛秀麿指揮 青山杉作演出 芸術祭管弦楽団 芸術祭合唱団
東京藝術大学・藤原歌劇団・長門美保歌劇団・二期会・東京オペラ協会・関西オペラグループが参加
第2幕 伯爵夫人の居間(プログラムより)

右よりマルチェリーナ(市木崎義子)、伯爵(伊藤亘行)、伯爵夫人(長門美保)、スザンナ(伊藤京子)、フィガロ(伊藤武雄)
11月25日 毎日音楽賞受賞記念 関響招待演奏会(梅田劇場)
関西交響楽団が関西における交響楽運動への寄与により、第四回毎日音楽賞受賞。これを記念して招待演奏会を開催した
大阪で初演されたオペラ《夕鶴》
1952年(昭和27年)1月30日、大阪朝日会館で初演された《夕鶴》(全一幕)は創作オペラの歴史のなかで、その上演回数の多さ(国内外で700回を超える)や、その後の創作オペラに与えた影響において際立つ存在感をもつ。それは、「日本語によるオペラは可能なのか」という作曲家たちの今日まで続く苦闘の起点となった作品であったからである。作曲家、團伊玖磨は生涯にわたって創作オペラをつくり続けたがその第一作品が夕鶴であった。
木下順二の戯曲《夕鶴》(民話「鶴の恩返し」にもとづく)を原作とし、戯曲の初演は1949年(昭和24年)、木下が主宰する劇団「ぶどうの会」が、主演女優、山本安英によって上演した。日本の演劇史上に残る名作とされているこの戯曲の台本を一言半句変えることなくオペラの台本とすることがオペラ化の条件であった。1950年に團伊玖磨は作曲にとりかかり、翌年に完成、藤原歌劇団によって関西で初演され、その後東京、日比谷公会堂で再演されている。
では、なぜ、初演が東京ではなく、大阪であったのだろうか?それは、《夕鶴》のオペラ化を考えていた新人作曲家の團に対し、その構想を本人からきいた大阪朝日会館館長の十河厳(そごうがん)が「うちでやろう」と即座に申し出たことからオペラ公演が実現したからであった。上演に貢献したとして、十河厳は初演の翌年に伊庭歌劇賞を受賞している。
初演は藤原歌劇団(ダブルキャスト、つう:原信子、大谷洌子、与ひょう:木下保、柴田睦陸)、團伊玖磨指揮、関西交響楽団、めぐみ会合唱団、岡倉士郎演出によるものであった。会場はもちろん大阪朝日会館、1月の厳冬期に会館には暖房がなく聴衆も寒さに震えながらの上演であった。さらに東京、日比谷公会堂、そして中国九州公演とつづき、また初演時にすでにレコード化(日本ビクター)が決まっていたという創作オペラとしては異例づくめの好スタートをきった。毎日音楽賞特別賞、伊庭歌劇賞、山田耕筰作曲賞を受賞している。
《夕鶴》はその後、関西歌劇団が武智鉄二(たけちてつじ、歌舞伎の演出で活躍)による能様式の演出で公演を行うなど、関西生まれの創作オペラとして上演が重ねられていくことになる。

初演キャスト・スタッフ(プログラムより)

公演写真/提供:公益財団法人日本オペラ振興会(藤原歌劇団)


1953年(昭和28年)

大阪音楽大学の歴史

新『楽友』第一号

2月10日 新『楽友』第一号創刊(短期大学学生・高等学校生徒自治会)
短期大学設立後初の学生誌の発行。短期大学自治会はこの時まだ結成前で、実際の編集作業は高等学校の自治会が行った。第三号からは短期大学単独号になる

3月22日 短期大学(第一部)初の卒業式
第一期生40名が卒業した

プログラム

3月22日 第一回短期大学卒業演奏会(大阪朝日会館)
朝比奈隆・宮本政雄指揮の関西交響楽団が特別出演。19名の出演者のうち、声楽科学生5名がプロ・オーケストラの伴奏で歌い、ピアノ科学生4名が協奏曲で協演した
5月13~16日 短期大学卒業演奏旅行(岐阜県)
小学校や中学校など8カ所で12公演を行った

7月4日 関西交響楽団ベートーヴェン連続演奏会に出演(産経会館)
朝比奈隆指揮《交響曲第9番》に本学学生・高等学校生徒による合唱が参加
7月8日 第一回短期大学学生演奏会(本学講堂)
短期大学に学生自治会が結成され、その事業の一つとして、研究演奏会を継続的に開催していくことになった

8月1日 短期大学同窓会第1回推薦演奏会(大阪朝日会館)
本学同窓会により、音楽文化の向上に寄与するためとして、会員の門下生の中から優秀な生徒を選んで演奏会を開催することになった

学生演奏会

推薦演奏会プログラム

9月25日 朝比奈隆外遊歓送演奏会に出演(大阪府立体育館)
本学学生がアサヒコーラス、関西オペラ合唱部とともに、ベートーヴェン《交響曲第9番》および朝比奈隆の外遊に向け永井学長が作詞作曲した《“朝比奈隆外遊を記念する”歓送カンタータ》を合唱。本学教員もソリストで多数出演

11月29日~12月4日 短期大学演奏旅行(姫路、岡山、香川県)

12月14日 第三回短期大学演奏会(産経会館)
朝比奈隆の外遊を記念して
関西交響楽団専任指揮者であり、本学教授であった朝比奈隆がアメリカを皮切りにイタリア、ドイツ、フランス等、欧米各国の楽界を見学と研究を兼ねて外遊するに際し、歓送演奏会が開催され、本学学生、教員が出演した。学生たちはベートーヴェン《交響曲第9番》とともに、永井学長が作詞作曲を行った《“朝比奈隆の外遊を記念する”歓送カンタータ》を合唱した。
永井学長が作った歌詞には、「今、関響の目覚ましき躍進、三年の苦闘、終にその実を結びたり」とあり、朝比奈の功績を讃えている。最後は「雄々しく雄々しく 行け行け快男子」と、はなむけの言葉を勇ましく締めくくっている。

プログラムより

《“朝比奈隆の外遊を記念する”歓送カンタータ》永井学長自筆譜より

9月25日 朝比奈隆外遊記念歓送演奏会 プログラム表紙

永井学長自筆歌詞

卒業演奏会前、恒例の校舎前での記念撮影(昭和12年3月24日)
(前列に教員、中央に永井校長、後列に学生)

関西音楽の歴史

1月20日 毎日新聞社主催、関西交響楽団ベートーヴェン全交響曲連続演奏会開始(毎日会館)

2月1日 NHK、テレビ放送開始
8月28日には民間放送第1号として日本テレビも開局。テレビ放送は人々の洋楽受容に画期的な変化をもたらしていくことになる

NHKによるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスター、ヘルムート・ヘラーの演奏放送風景(6月7日)​

昭和28年2月15日
朝日新聞夕刊

2月14~17日 グルリット・オペラ協会第一回公演 モーツァルト《魔笛》本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)
マンフレット・.グルリット指揮 青山圭男演出 関西交響楽団 グルリット・オペラ合唱団

3月27、28日 ヴァルター・ギーゼキング関西初公演(宝塚大劇場)
昭和28年3月28日 大阪読売新聞

4月30日 関西交響楽団東京特別公演(日比谷公会堂)
4月30日 日比谷公会堂にて 朝比奈隆指揮
5月2日:日本青年館
関西交響楽団、初の単独東京公演

6月14日 ショスタコーヴィッチ《オラトリオ「森の歌」》本邦初演(円山会館)
桜井武雄指揮 こんせる・ぬうぼお 紫明混声合唱団

7月10、11日 近衛管弦楽団・二期会合同公演 モーツァルト《フィガロの結婚》(宝塚大歌劇場)
近衛秀麿指揮 青山杉作演出 近衛秀麿管弦楽団 二期会合唱団

8月 日本コロンビア、国産初の邦盤LPレコード販売
長時間の記録が可能なLPレコードは、クラシック音楽の普及に大きく貢献する

9月19~23日 貝谷八百子バレエ団《くるみ割人形》全曲本邦初演(産経会館)
朝比奈隆指揮 関西交響楽団 関西オペラ合唱部
9月24、25日 朝比奈隆外遊歓送コンサート
24日:宝塚大劇場 25日:大阪府立体育館

チラシ

チラシ

プログラムより

10月2日 アイザック・スターン関西初公演(産経会館)
3日:宝塚大劇場 13日:公楽会館(京都)
10月12日 神戸女学院大学音楽学部設置
10月19日 ラザール・レヴィ公開レッスン(大阪朝日会館)

外来演奏家が演奏会だけでなく、公開レッスンを行うというのは当時としてはまだ珍しかった。3年前の来日の際、東京では実施されたが、関西ではこれが初めてであった
11月18日 朝日放送が開局3周年記念委嘱作品、清水修の創作オペラ《修禅寺物語》を放送し、この年の芸術祭賞を受賞
外来演奏家ラッシュ
戦後初の外来演奏家は毎日新聞社が招いたラザール・レヴィであった。しかし世界有数の外来演奏家となると、何と言っても1951年(昭和26年)に朝日新聞社が招聘したエフディ・メニューインである。それ以降、海外より著名な演奏家たちが次々に来日し、関西でも公演を重ねるようになる。1953年(昭和28年)、2月21日付の国際新聞は「外人音楽家ラッシュ あわてた楽壇大騒ぎ」との見出しで、「年々増え続ける外国人音楽家の来日がいよいよ年間30名にものぼると予想され、東京では音楽会の会場や聴衆を奪われている日本人の演奏家たちが、外国人音楽家招聘反対の態度を表明している」という内容を報じた。記事は「今年の外人音楽家ラッシュをヤマに、この楽壇異変がどうひっくりかえるかが注目されている」と結んでいるが、その後も外来演奏家のラッシュは当分その勢いが衰えることはなかったのである。

この頃の主な外来演奏家
招聘元は新聞社、放送局、オーケストラなどであった
この頃の主な外来演奏家
招聘元は新聞社、放送局、オーケストラなどであった
1951年(昭和26年)

8月6日 前売券を求めて徹夜組を含め、朝日会館の周りに100mの行列ができたという

10月13日 朝比奈隆指揮の関西交響楽団と練習するメニューイン 日本のオーケストラとの初協演であった

10月14日 メニューイン提琴演奏会(宝塚大劇場)
朝比奈隆指揮 関西交響楽団
1952年(昭和27年)

4月
ゲルハルト・ヒュッシュ(ヴァイオリン)
主催:日本放送協会・ラジオサービスセンター

9月
ブタペスト弦楽四重奏団
主催:日本放送協会・ラジオサービスセンター

10月
アルフレッド・コルトー(ピアノ)
主催:朝日新聞社

11月
エレナ・ベルガー(ソプラノ)
主催:朝日新聞社

1953年(昭和28年)

3月
ジョセフ・シゲティ(ヴァイオリン)
主催:毎日新聞社

3月
ヴァルター・ギーゼキング(ピアノ)
主催:読売新聞社

5月
マリアン・アンダソン(アルト)
主催:大阪中央放送局・ラジオサービスセンター

10月
アイザック・スターン(ヴァイオリン)
主催:大阪中央放送局・ラジオサービスセンター

1954年(昭和29年)

4月
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
主催:毎日新聞社

4月
フェルッチョ・タリアビーニ(テノール)
主催:吉田音楽事務所・梶本音楽事務所

4月
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
主催:NHK交響楽団・京都放送局・大阪中央放送局

5月
ヤッシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)
主催:朝日新聞社

10月
ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)
主催:日本楽器/新日本放送・毎日新聞

1955年(昭和30年)

2月
ダヴィット・オイストラフ(ヴァイオリン)
主催:読売新聞社

5月
シンフォニー・オブ・ジ・エア(管弦楽団)
主催:毎日新聞社・日本放送協会

10月
ミッシャ・エルマン(ヴァイオリン)
主催:読売新聞社


1954年(昭和29年)

大阪音楽大学の歴史

2月10日 短期大学演奏会(神戸商工会議所)

2月15日 短期大学音楽科第二部(夜間)増設認可
第一部と同じく、作曲楽理・声楽・器楽の3専攻。募集定員40名

昭和29年度学生・生徒募集ポスター
夜間新設の文字とともに、新校舎落成近しと書かれているが、“4月より”とある落成・移転が成ったのは10月15日の創立記念日のことであった
3月3~5日 関西交響楽団第8回松竹定期演奏会に出演
3日:大阪松竹座 4日:京都松竹座 5日:神戸聚楽館
朝比奈隆帰朝歓迎大演奏会と銘打ち、朝比奈隆指揮によるベートーヴェン《交響曲第9番》などが演奏された。本学教員がソリストを務め、短期大学・高等学校合同の合唱団が参加した。

4月1日 短期大学第二部開設(定員40名)
短期大学第二部増設に際し、近い将来十分な校地を持ったところに移転するとの条件で文部省から認可を受けていたこともあり、大阪府豊能郡庄内町野田に3千坪の校地を取得する。当時は一面畑で、シャクシ菜の栽培が盛んであったという

庄内校地

7月 庄内校舎地鎮祭
永井学長が鍬を入れた

10月15日 庄内学舎1号館(木造2階建て6教室)が完成し、味原から移転する

高等学校2年生の教室にて(昭和29年秋)
11月18日 教職課程認定 第一部・第二部正規の課程、同年4月1日適用(中学校教諭二級普通免許状=音楽)

ポスター

11月20日 第四回短期大学定期演奏会(大阪市中央公会堂)
校舎増築資金募集を兼ねて開催され、朝比奈隆指揮の関西交響楽団が特別出演した。高等学校生徒も合唱で出演
11月26、27日 短期大学演奏旅行(福井、富山県)
学生・教員約70名が初の北陸公演を行った

12月1日 永井幸次、自伝『来し方八十年』刊行(大阪音楽短期大学楽友会出版部)

※クリックで拡大します。
12月24日 クリスマス大音楽会に出演(大阪松竹座)
本学学生が朝比奈隆指揮の関西交響楽団、関西歌劇団、辻久子らと共演。クリスマス・キャロルやヘンデル《メサイア》からハレルヤ・コーラスなどを合唱
『来し方八十年』
この年80歳になった永井学長は、本学創立40周年を記念して、以前から勧められていた自伝の出版を行った。鳥取の士族の家に生まれ、伯父が従兄妹たちに子守唄代わりに歌っていた讃美歌を聞いて初めて西洋音楽と出会ってから、本学を創立して80歳に至るまでの自分の来し方を著すことで、いくらかでも後進の参考になればとの思いからであった。
三人称で書かれた誰かの自叙伝を読んだことがあったらしく、他人が評しているように巧妙だったとして、永井もそれを真似て自分のことを“彼”と称して書き綴っている。
あとがきには「今日、人は私を成功者の一人と称賛してくれても、まだ私の理想の一端しか実現できておらず、今後も余命に鞭打って励みたいと思っている」と記しているが、自筆原稿の中でこの刊行された自著に含まれなかった部分に「将来の希望」として、その余命に鞭打っても実現したいと思うことが列挙されている。そしてこれらの希望はその多くが、将来実現されていくことになるのである。
(一)四年制の大学を設立すること
(二)大学の教授陣を固むること
(三)大学卒業生にして将来有望な者を選択して海外に留学させること
(四)本大学に附属として次の四つを設く
   高等学校(現在の高等学校を改称)中学校 小学校 幼稚園
(五)作曲科教科の充実
(六)外国語を強化し、学生が原書で研究する実力を養成したい
(七)本学に次の建物を建設すること
   図書館 教師館(外人用の洋館・邦人用の日本家屋)寄宿寮 購買館 出版部 音楽博物館
(八)邦楽研究部の設置
(九)奨励資金の創設

永井学長自筆原稿
前書きの部分

本学創立についての部分より

新校地、庄内へ
戦後10年足らずのうちに、高等学校開校、短期大学開学、さらに第二部増設と宿願を果たしたものの、そのたびに頭を悩ませてきたのが運動場の確保であり、常に「追って適当な校地を求める」という条件付きでそれらは成し得たものであった。そして学内は気が付けば学生・生徒・教職員を合わせると約300人の大所帯となり、いよいよ味原校舎は手狭になっていた。しかし周囲はもちろん、大阪市内に運動場を備えられるだけの広大な土地を見つけることは、もはや至難の業であった。水川理事長は近郊への移転を検討することとなる。
第二部増設申請に苦労していた1953年(昭和28年)の初め頃、水川は東京へ向かう車中で偶然、豊能郡庄内町長の中山辰太郎と隣り合わせになった。会話を交わすうちに、庄内町の合併問題の話題になり、大阪市と豊中市が競合しているが、どうやら大阪市に決まりそうだと聞く。大阪音楽短期大学なので、願わくば大阪市内の移転が望ましいと考えながらも断念しかけていた水川にとって、それはこの上ない情報であった。中山町長に本学の抱える移転問題を説明し、庄内町への移転に協力をもとめた。
この車中の話が縁で、水川は町長から、望月小太郎(のちに本学理事)ら数人の同町地主が所有していた3千坪の土地を紹介してもらう。望月は大阪府会議員時代に府教育委員長だった水川とも交流のあった人物で、交渉の結果、坪500円という破格の地価で入手することができた。それが現校地の庄内幸町である。当時は池が点在し、あたり一面は畑で、現在市道となっている北側の土堤に沿って、幅2mほどの小さな川が流れていたという。土堤の上では牛が遊んでいる、のどかな農村風景が広がっていた。
1954年(昭和29年)7月に校舎建設の許可申請を提出し、ほどなく地鎮祭も行った。10月初めに木造2階建て6教室の1号館が完成。3教室を高校、2教室を短期大学、残りの1教室を教職員・事務室にあてた。1号館北側にはレッスン室、練習室が20室ほどあり、小食堂や購買部のようなものもあったという。創立39周年の10月15日、創立記念日に移転を完了する。翌年、戦禍をもくぐり抜け、本学30年間の歴史を刻んだ味原校舎は売却された。新校舎建設の資金のためとはいえ、永井学長の分身ともいうべき旧校舎の売却を水川は終生、永井に対して申し訳なかったと後悔していたという。しかしそれはこのあと4年間計7期の工事を支え、次なる前進への礎となったのである。

校舎建設前の庄内校地

北東から見た校地内の池、
1号館(奥)、
レッスン・練習室(手前)

校舎内

レッスン室

練習室

昭和30年頃の庄内駅

北側の踏切

味原校舎3階講堂にあった革張り椅子
楽譜《凱旋》の収益で購入したもので、味原30年の歴史を象徴する記念品として移転の際に運んできた
現在、K号館4階の音楽博物館前に展示されている

椅子には永井学長への思いのこもった
水川理事長の文章が添えられている

短期大学第二部開設
第二部(夜間)開設への布石は、短期大学が開学した1951年(昭和26年)の秋にすでにあった。11月4日に開催された第一回短期大学秋季大演奏会のプログラムに、「選科生(夜間部)募集」と書かれた印刷物が含まれていたのである。それによると、働きながら音楽を愛好する一般人や、趣味で勉強する学生のためにこの制度を設けたとある。この時は器楽科、声楽科、受験準備科の3科があった。
いよいよ本格的に第二部開設を望む声が高まり、1953年(昭和28年)9月30日に増設申請を行った。この時もまた運動場確保の問題に直面するが、近くにあった真田山公園グラウンドの代用案を提出したところ、運良くこれが通り、1954年(昭和29年)2月15日に認可を受けることができた。図書および標本の整備、専門科目の教授を増強することなどが条件であった。
専攻は第一部と同じ作曲楽理・声楽・器楽科の3つで、定員も同じく40名。4月1日に第一期生が入学した。教職課程も第一部、第二部の正規の課程(中学校教諭二級普通免許状=音楽)として、この年の11月18日に認定された。

1951年(昭和26年)11月4日 第一回短期大学秋季大演奏会プログラムより

関西音楽の歴史

3月3~5日 関西交響楽団 第8回松竹定期演奏会(朝比奈隆帰朝歓迎大演奏会)
3日:大阪松竹座 4日:京都松竹座 5日:神戸聚楽館
16日には宝塚大劇場において「朝比奈隆帰朝記念招待演奏会」も行われている

大阪駅にて帰国の出迎えを受ける朝比奈隆(1月30日)

4月16、17日 ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)関西初公演(宝塚大劇場)

プログラム

4月17、18日 朝比奈隆帰朝記念 関西オペラ第8回公演《お蝶夫人》(大阪歌舞伎座)昼夜2回公演
この時初めて武智鉄二が演出を担当。歌舞伎の様式を取り入れたその手法が評価され、武智は第六回大阪市民文化賞受賞。この公演を機に関西オペラ協会は関西歌劇団と改称。
劇団長:朝比奈隆、劇団主事:野口幸助、正団員12名、準団員3名、合唱班32名、演出部4名

チラシ

4月19、20日 フェルッチョ・タリアビーニ関西初公演(産経会館)
4月26日 『ミュージック&バレエ』創刊(社団法人関西交響楽協会発行)
『関西音楽新聞』という名前で関西のクラシック音楽、バレエ関係の専門誌として現在も発行されている

チラシより

4月26日 ヘルベルト・フォン・カラヤン関西初公演(京都劇場)
27、28日:宝塚大劇場
関西におけるカラヤン初指揮の曲は、ベートーヴェン《エグモント》序曲であった
5月28、29日 藤原歌劇団帰朝特別公演 マスネー《マノン》本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)
森正、福永陽一郎指揮 関西交響楽団 青山圭男演出 藤原歌劇団合唱部

6月15日 県立滋賀会館開館

チラシ

10月9、10日 ヴィルヘルム・ケンプ関西初公演(宝塚大劇場)
11月21日:宝塚大劇場
10月23日 関西歌劇団東京初公演《お蝶夫人》を中止
関西歌劇団の東京初進出となる歌舞伎座での公演(同月28、29日)であったが、かねてから松竹の封建制を非難してきた武智鉄二の名前を出すことを拒否した松竹側との対立が起こり、無期延期となる。

プログラム

11月4~6日 清水修《修禅寺物語》本邦舞台初演(大阪朝日会館)
朝比奈隆指揮 武智鉄二演出 関西交響楽団 関西歌劇団
前年のラジオ放送に引き続き、朝日放送が制作。武智演出での《お蝶夫人》が成功した関西歌劇団が全面協力した

プログラム

11月18~20日 能と狂言に依る創作劇の夕(新橋演舞場)
武智鉄二演出の能様式による《夕鶴》が東京で初演された。出演の関西歌劇団の歌手たちは紋付袴で謡曲の部分をオペラ調で歌うというものであった。作曲は團伊玖磨と片山博通。翌年1月29日、祇園歌舞練場で関西初演された
創作オペラのメッカ、関西と武智鉄二
1950年代の多彩な創作オペラ公演の相次ぐ上演という現象はなぜ起きたのだろうか。そこには、西洋オペラを日本語に翻訳して上演する際におきる音楽と言語の矛盾、そしてそこから生み出される演技の不毛といった戦前から続く未解決な問題があった。戦前にも創作オペラは山田耕筰の《黒船》などが作曲されたが、戦後、創作オペラは東京ではなく、関西で開花することになる。
その背景には、主として次の2つの動きがあったと考えられる。一つは、さかのぼること1949年(昭和24年)の、「関西オペラ協会」(後の関西歌劇団)の誕生、そして協会の牽引者であった朝比奈隆のオペラに対する情熱、二つ目は、東京の二期会から大阪の労音や音楽家らに協力要請がなされ「創作オペラ専門委員会」が結成され、組織的かつ大規模な「創作オペラ運動」が展開されたことである。1953年(昭和28年)には、関西労音の会員に対して創作オペラへの寄付金を募って「一人一円を創作オペラ基金として積み立てる」運動を展開するなど、今日では想像もつかないほどの「日本語による創作オペラ」への熱意が大衆文化運動として高まりをみせていた。オペラ公演が演奏会に比べて大きな経費を必要とすることを関西では、独自の工夫で克服しようとしたのである。
この関西のオペラ運動の中心人物であった、朝比奈隆は、欧米視察によって得られた本場のオペラ体験を通じて「日本人には日本語による独自のオペラが必要」との信念があった。創作オペラに必要なのは、美しい日本語によるすぐれた台本、その日本語を自然に伝えうる楽曲、そして創作オペラ独自の演出方法だという考えである。朝比奈は関西における歌舞伎演出ですでに才能がみとめられていた武智鉄二(1912〜1988)に関西歌劇団のオペラ演出を依頼し、歌舞伎様式《お蝶夫人》(1954年)、歌舞伎ですでに演目となっていた《修善寺物語》(1954年)、能仕立ての《夕鶴》(1954年)や狂言様式による《赤い陣羽織》(1955年)といった挑戦を次々と繰り出していった。1950年代から60年代にかけて、関西交響楽団と関西歌劇団の2団体が関西の創作オペラ運動を支えていたのである。
日本の伝統芸能をオペラの演出にとりいれる武智の取り組みは当時から賛否両論の大論争をひきおこしたが、その後も生涯を通じて定期的にオペラ演出を続け、亡くなる年の1988年には関西歌劇団の《お蝶夫人》を演出している。近年では、2008年に武智鉄二原演出、井原広樹演出として「大栗裕の世界」(ザ・シンフォニーホール)のなかで《赤い陣羽織》が上演されている。
《お蝶夫人》
関西歌劇団《お蝶夫人》を演出した2人と朝比奈隆
左:武智鉄二(昭和29年7月22日 関西歌劇団 宝塚特別公演《お蝶夫人》プログラムより)
中:坂東蓑助(のちの人間国宝・八代目坂東三津五郎)(昭和30年6月25日 関西歌劇団《お蝶夫人》プログラムより
右:《お蝶夫人》の稽古風景 左から坂東蓑助、武智鉄二、朝比奈隆(『関西歌劇団50年のあゆみ』提供:関西歌劇団)

昭和29年4月17、18日 関西オペラ第8回公演《お蝶夫人》プログラムより
武智はじめてのオペラ演出となった。朝日放送によって放送録音がされている

公演写真(昭和29年7月22~24日 関西歌劇団宝塚特別公演《お蝶夫人》プログラムより
《修禅寺物語》

昭和29年11月4~6日
舞台初演チラシ

舞台初演キャスト・スタッフ
(プログラムより)

《修禅寺物語》作曲家、大阪生まれの清水修

《修禅寺物語》舞台稽古
右端に演出の武智鉄二

《修禅寺物語》練習風景(昭和29年10月26日 新関西)
指揮者:朝比奈隆(左から2人目)演出:武智鉄二(右端)

《夕鶴》
昭和29年10月8日 武智演出《夕鶴》の衣裳合わせ
11月18~20日の東京新橋演舞場での公演に向け、京都の片山九郎衛門邸で行われた

昭和29年10月9日 毎日新聞
(左から武智鉄二、茂山千之丞、片山九郎衛門、片山博太郎)

昭和30年1月29日《夕鶴・東は東》 関西公演プログラム

武智演出、能様式による《夕鶴》
(同上、関西公演プログラムより)

昭和30年3月14、15日 関西歌劇団第9回公演 チラシ

《夕鶴》が表紙を飾る『音楽文化』1955年5月号

《ききみみずきん》

初演キャスト・スタッフ(昭和30年3月18~31日 プログラムより)
大阪勤労者音楽協議会が制作した初めての創作オペラ

東京での練習風景
壇上で指揮をする作曲者の團伊玖磨

労音会員による女声合唱団が関西歌劇団合唱部と共演した


1955年(昭和30年)

大阪音楽大学の歴史

1月1日 豊中市が庄内を合併。本学校地地番が豊中市野田160と変更

2月2日 短期大学自治会演奏部創作歌劇《竹取物語》
本学自治会演奏部主催で、学生のみによる創作オペラを上演した。脚色を和歌山大学学生、美術、装置、照明を京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学美術学部)学生が担当し、それ以外の作曲から指揮まではすべて本学学生の自作自演であった

(労働会館)

2月14日 関西交響楽団第78回定期演奏会に出演
朝比奈隆指揮、ソリストとして樋本栄教員、本学学生が合唱で参加し、フォーレ《レクイエム》の本邦初演を行った

大阪朝日会館

庄内学舎移転後初の卒業生
1号館玄関前にて

3月29日 第三回短期大学卒業演奏会(産経会館)

朝比奈隆指揮の関西交響楽団とショパン《ピアノ協奏曲第1番》を協演する学生

終演後の記念撮影

6月4、5日 東京交響楽団第六回定期演奏会に出演
4日:宝塚大劇場 5日:キョウト・アリーナ
上田仁指揮のベートーヴェン《交響曲第9番》に短期大学・高等学校合同の合唱団で参加。ソプラノソリストは樋本栄教員であった。新日本放送のラジオ番組「ニッケコンサート」(日本毛織株式会社提供)の放送100回を記念して開催され、特別番組として放送された

8月15日 庄内学舎2号館完成(木造2階建て)
奥に見えているのは1号館

11月24日~12月1日 短期大学演奏旅行(岡山、香川、徳島、愛媛県)

12月11日 短期大学第二部文化祭(本学講堂)

12月18日 第五回短期大学定期演奏会(大阪市中央公会堂)
午後1時、3時の2回公演で「中学生のための音楽鑑賞会」「高校生のための音楽鑑賞会」として、中高生を招待した。会場は中学、高校生の聴衆で埋まったという

プログラム

12月24~26日 X'MAS大音楽会に出演
24日:大阪松竹座
25日:京都松竹座
26日:神戸聚楽館
本学学生が関西歌劇団合唱部とともに合唱で参加

クリスマス・コンサートに出演(撮影年不詳)

学生だけの創作オペラ《竹取物語》
1952年(昭和27年)の團伊玖磨《夕鶴》初演に端を発し、関西歌劇団が《修禅寺物語》や《赤い陣羽織》を初演するなど、この時期関西洋楽界は創作オペラの活動が盛んであった。その影響もあってか、1955年(昭和30年)2月5日、本学自治会ならびに演奏部主催で、学生たちによる創作オペラ《竹取物語》が上演された。
作曲したのは本学作曲科の2年生で、高校3年時に本校文化祭で、当時未完成だった同作品の一部を高等学校自治会演奏部が演奏していた。完成したのは前年の昭和29年暮れのことで、脚色はその学生の和歌山大学の友人が行った。衣裳を担当した本学声楽科の学生が京都美術大学(現・京都市立芸術大学美術学部)の友人2人に美術・装置と照明を依頼。本学管弦楽部と声楽科学生30名がヴァイオリン専攻の学生の指揮のもと、演奏を行った。演出は本学の桂直久教員が行い、歌唱指導を横井輝男教員が行ったが、作曲、脚本から指揮、演奏、衣裳、美術、照明、プログラム作成と、すべて大学生だけの手によるものという画期的な公演となった。そしてその中心メンバーは、ようやく本格的に自治会演奏部に産声を上げた「オペラ研究部」の学生たちで、彼らの活動の記念すべき第一歩でもあった。
3幕8場、2時間半にわたるこの作品は、合唱に《越天楽》を取り入れ、《マルタ》《蝶々夫人》《ラ・ボエーム》などを手本に作曲されたという。公演当日は超満員だったらしく、翌日の毎日新聞は、「学生だけの創作オペラ発表会が芸術に結ばれた友情によって開かれ、在阪の音楽関係者たちの注目を集めた」と報じ、関西交響楽団指揮者、朝比奈隆氏談として「外国でも学生だけのオペラなど例がないだろう。(中略)日本の作曲の歴史ももう四十余年になるが、オペラの作曲をした人は四、五人ぐらいだ。我々としても大いに反省させられる」と記している。
その後、この《竹取物語》を作曲した学生、高井良純はミュージカル作曲家として宝塚歌劇団を中心に、また指揮をした藤本幸男は弦楽器の分野に活動し、出演者の安則雄馬、窪田譲、矢野蓉子、山村弘らは本学の声楽教員となる。「オペラの大阪音楽大学」という特色がこの頃から明確に学内外に意識されてきたのではないだろうか。
プログラムより

招待券

練習風景

集合写真

関西音楽の歴史

1月21日 関西交響楽団第77回定期演奏会にてサン・サーンス《交響曲第3番》を本邦初演
創立5周年を迎えたこの年、関西交響楽団は定期演奏会でフォーレ《レクイエム》、ラフマニノフ《交響曲第二番》、ハチャトリアン《ヴァイオリン協奏曲》、プラハー《パガニーニ変奏曲》など数多くの本邦初演を行った

プログラムより

2月 和歌山市民会館完成(1,500名収容)
2月28日 ダヴィッド・オイストラフ関西初公演(大阪歌舞伎座)
3月1日:同会場
3月10日 京都府吹奏楽連盟結成記念合同演奏会(弥栄会館)
全関西吹奏楽連盟の中でさらに各府県連盟の結成が始まる。京都を皮切りに昭和34年に滋賀、奈良、昭和36年に大阪でそれぞれ結成された

プログラム

3月18日 團伊玖磨《ききみみずきん》初演(宝塚大劇場)
19~22日:同会場 23~31日:毎日会館
團伊玖磨指揮 岡倉士朗演出 関西交響楽団 藤原歌劇団・二期会・関西歌劇団
大阪勤労者音楽協議会が創作オペラを自主制作して上演。労音会員による女声合唱団が関西歌劇団合唱部と共演して合唱を行った
3月26日 関西歌劇団、大阪府民劇場賞受賞

4月1日 音楽文化協会発足
関西経営者協会が支援して、会社単位の音楽愛好者を会員とする「音楽文化協会」が創設された。機関誌『音楽文化』(月刊)発行

5月7日 シンフォニー・オブ・ジ・エア関西初公演(宝塚大劇場)
8、9日:同会場 10日:京都劇場
トスカニーニの手兵であった元NBC交響楽団「シンフォニー・オブ・ジ・エア」の関西初公演が毎日新聞社・日本放送協会主催で行われた。海外の有名オーケストラの来日公演はこの時が初めてであった。第三夜の9日は「大学生のための演奏会」として催され、全国から106校の学生が詰めかけた。前売券を求めて6千人の行列ができたという

プログラム

6月11、12日 関西歌劇団創作歌劇第一回公演 大栗裕《赤い陣羽織》/芝祐久《白狐の湯》初演(三越劇場)

甲子園球場

7月31日 三大交響楽団合同演奏会
朝比奈隆、上田仁、近衛秀麿という3人の指揮者による関西交響楽団、東京交響楽団、近衛管弦楽団の合同演奏会で、4万5千人という野外演奏の入場最高記録が出たという。毎日新聞社主催、大阪労音の例会でもあった
8月15日 関西交響楽団、エルツキー・アールトネン《交響曲ヒロシマ》を世界初演(広島市公会堂)

昭和30年9月4日 毎日新聞夕刊

9月4日 桐朋学園オーケストラ演奏会(毎日会館)
5日:同会場 6日:弥栄会館
指揮をする同学園短大1年生の小沢征爾
9月23日 モーツァルト生誕二百年記念ピアノ協奏曲連続演奏会開始(大阪朝日会館)
翌年のモーツァルト生誕二百年を記念して、倉敷レイヨン社長の大原総一郎が提唱し、200人にのぼる関西財界・文化人による「モーツァルト生誕二百年祭祝典委員会」が組織された。

プログラム

その記念行事として朝日新聞社・朝日放送が、モーツァルトのピアノ協奏曲24曲の連続演奏会を開催。オーケストラは朝比奈隆・宮本政雄指揮の関西交響楽団、関西の中堅新進ピアニスト20人がソリストを務め、放送、記念出版も行われるという関西楽壇あげての催しに注目が集まった
9月24、25日 第一回全国労音連絡会議開催(大津)

10月1日 相愛学園子供の音楽教室開設

12月8日 大谷冽子渡欧記念、東西合同オペラ公演、プッチーニ《お蝶夫人》(宝塚大劇場)
当時、東京ではオペラ団の交流が盛んだったが、藤原歌劇団・二期会に関西歌劇団が加わって公演を行った。スズキに桂斗伎子、五郎に木村四郎が出演
《赤い陣羽織》
木下順二原作、大栗裕作曲のオペラ《赤い陣羽織》(1幕3場)の背景には、「関西オペラ協会」(年表1949年の記事を参照)の誕生、朝比奈隆のオペラに対する情熱、関西労音の「創作オペラ運動」の高まりがあり、《赤い陣羽織》はいくつもの団体や個人によるオペラ創作への情熱が最高潮に達した時代の気運のなかから誕生したといえる。
作品は1955年6月11、12日の両日に武智鉄二の演出、関西歌劇団による「創作歌劇第一回公演」として大阪三越劇場で芝祐久の《白狐の湯》と二本立てで初演された。先んじて同年1月には歌舞伎の演目としても取り上げられている。すでに《夕鶴》の大成功から3年が過ぎ、その間、武智の日本伝統様式による演出(能や歌舞伎といった日本古典文化をオペラに取り入れる手法)が《夕鶴》や《お蝶夫人》によって関西のオペラ界で大きな話題となっていた時期、《赤い陣羽織》は新たに「狂言オペラ」という演出様式を打ち出した武智と、大阪の民俗色を持ち味とした異色の新人作曲家、大栗裕によって生み出された。
原作はアラルコンの『三角帽子』(ファリャやヴォルフがオペラ化)であり、木下順二の日本語翻案作品は《夕鶴》と同様に台本の変更を一切認めないという条件のもとで作曲された。関西のオペラ界では100回をこえる上演がなされており、「おやじ」が当たり役となった本学声楽教員の林誠ほか、歴代の声楽教員と深い関わりをもつ作品である。本学のザ・カレッジ・オペラハウスにおける「20世紀オペラシリーズ」のなかでも2006年に茂山千之丞演出でとりあげられている。

1955年6月11、12日 初演キャスト・スタッフ(プログラムより)

初演舞台写真(昭和50年11月1日 音楽の世界『関西楽壇の30年・特集12』より)

《白狐の湯》仕上げ練習風景(昭和30年6月9日 朝日新聞)原作者の谷崎潤一郎(左端)演出の武智鉄二(手前右端)

《赤い陣羽織》が表紙を飾った『音楽文化』1955年9、10合併号
おやじ:木村彦治 おかか:桂斗伎子

大栗裕と本学
大阪船場で生まれた大栗裕(1918〜1982)は、大阪市立天王寺商業高等学校を卒業後、東京でのホルン奏者としてのオーケストラ活動を経て、関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)に入団し、その後1955年(昭和30年)に《赤い陣羽織》で作曲家としてデビューした。音楽学校や作曲家に弟子入りして学んだわけではなく、ホルン奏者として現場でのキャリアを積み、独学で作曲家となったのである。翌年には朝比奈隆とともに渡欧し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会で《大阪俗謡による幻想曲》が朝比奈の指揮によって演奏されている。
その作風は大阪の伝統音楽、浄瑠璃や義太夫節から民謡、天神祭りの祭礼のお囃子など、大阪の民俗的素材を縦横に取り入れ、大阪方言の抑揚を生かしたオペラ作品など、大阪という土地がもつ多層的な土俗性にこだわり続けたところに最大の特徴がある。
本学とは、1954年(昭和29年)から亡くなる1982年(昭和57年)までの長きにわたり、ホルンなどの講師をつとめたことや作品を通じての人的交流も含めて深い関わりをもっていた。このことから没後30年にあたる2012年(平成24年)、本学は社団法人大阪フィルハーモニー協会などともにザ・シンフォニーホールにおいて、「甦る大阪の響き─大栗裕没後30年記念演奏会」を開催した。大阪フィルハーモニー交響楽団はもとより、大阪市音楽団、関西歌劇団など、大栗ゆかりの人々や団体が出演したが、本学からもOBホルン・アンサンブルが参加した。この日のためにプロ・アマ問わず結成された18歳以上のホルン奏者・愛好家による140名のホルン・オーケストラなど、総出演者が400名を超えたことも記憶に新しい。文字通り、大阪が生み関西人に愛された作曲家であった。

大栗裕(昭和29年12月9日 関西交響楽団第76回定期演奏会プログラムより)

同演奏会でモーツァルト《ホルン協奏曲第2番K.417》のソリストをつとめる大栗裕
指揮:朝比奈隆(同上プログラムより)

《交響曲ヒロシマ》
1953~54年(昭和28~29年)にかけて視察のために渡欧中だった朝比奈隆がフィンランドのヘルシンキ交響楽団を指揮した際に、同楽団のヴァイオリン奏者であるエルツキー・アールトネンから終演直後に朝比奈に楽譜が手渡された。その際「広島の悲劇の当日、悲壮な思いで書き始めたものです、人類を滅亡に導く原爆に対する芸術家としての最大の抗議をこめたものです」と朝比奈に自らの切実な思いを訴えたという。
日本での演奏を託された朝比奈は、終戦から10年後の終戦記念日にこの作品を広島市公会堂で関西交響楽団とともに初演し、5000名の聴衆が聞き入った。朝日放送、ラジオ中国により放送され、8月31日に京都の円山音楽堂で開催された第2回国連ムーンライトコンサートで関西初演された。

ヘルシンキ交響楽団を指揮する朝比奈隆
(昭和29年3月16日 朝比奈隆帰朝記念招待演奏会プログラムより)

朝比奈とアールトネン

《交響曲ヒロシマ》楽譜
(昭和30年7月27日 朝日新聞)