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大阪音楽大学について

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1915年~1930年



1915年(大正4年)

大阪音楽大学の歴史

10月15日 大阪音楽学校創立(校長 永井幸次)
男子も学べる関西初の私立音楽学校、この日より授業開始

    創立時の音楽学校       初めての生徒募集の新聞広告

大阪市南区塩町(現、南船場)の音楽学校( 大正4年頃撮影)

生徒募集 新聞広告
(大正4年10月9日 大阪毎日新聞)

ピアノの前の永井幸次

永井幸次(1874〜1965)
作曲家、音楽教育家、大阪音楽学校(現 大阪音楽大学、同短期大学)の創立者
1874年(明治7年)、鳥取市西町に生まれる。
永井と西洋音楽との出会いは生地、鳥取での教会の賛美歌であった。その後、外国人教師によって西洋音楽の素養を身につける。
1892年(明治25年)、上京し東京音楽学校に入学。写真1は東京音楽学校時代、同郷の岡野貞一(《ふるさと》の作曲者)とともに。
卒業後、静岡や郷里で唱歌とオルガンを指導する。1905年(明治38年)神戸市中宮小学校へ転職。その後、大阪府立清水谷高等女学校に転任し、「七声会」に参加。このころから、田中銀之助とともに、音楽教科書の自主編纂を行い、さらに幼稚園・小学校の唱歌教育の改善も進める。作曲および楽譜出版で得るなどした私財を投じ、大阪音楽学校を設立、生涯をかけて西洋音楽の普及に尽くした。

左より永井、岡野貞一、瀧廉太郎

オルガンを演奏する永井幸次

なぜ、永井幸次は音楽学校をつくったのか?
大阪は江戸時代より商都としてさかえ、上方の地歌や人形浄瑠璃などの伝統を有する文化都市でもあった。
しかし、こと西洋音楽においては、東京に大きく遅れをとっていた。東京には官立の東京音楽学校があり、国費をもって外国人教師を雇うなど、国策としての西洋音楽教育が行われていた。永井自身も卒業生である。
首都東京につぐ、第二の都市に西洋音楽の専門学校をつくりたい、という彼の熱意によって、ついに大阪の中心部、塩町(今の南船場)に「大阪音楽学校」の看板を掲げることになった。関西ではすでに相愛高等女学校(大阪女子音楽学校を併設)、神戸女学院が音楽専門教育を始めていたが、男子が学べる関西初の音楽学校がここに誕生した。男女共学が許されなかった時代ゆえ一日交替で男子と女子の授業を行う、授業は夜間のみ、といったスタートではあったが、永井は「東京音楽学校と対抗するに足るべき音楽学校」という高い目標を掲げていた。

文部省からの受賞賞金が学校設立のきっかけとなった永井の作品《御大典奉祝唱歌》(のちに校歌となる)

自筆譜

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関西音楽の歴史

創立当時の関西の洋楽状況

大阪ヴァイオリン倶楽部(『音楽界』大正5年8月号)

明治、大正の関西洋楽界
日本は他のアジア諸国と異なり、欧米列強の植民地支配を受けずに近代化をとげた。そのことが洋楽受容にも決定的な影響をもたらしている。何をどう受け入れ、どのような音楽や歌劇などを創っていくのか、受容当初から日本人は主体的に西洋音楽と向き合うことができたのである。
さて、明治から大正にかけての、関西の洋楽界は、大きくは二つの系統からなっていた。西欧人からの直接受容と、日本人が主体的に西洋音楽を受容、発展させる二つの流れである。
前者は「直輸入タイプ」とよべる、欧米人を介しての洋楽受容である。京都や阪神間には明治期よりいくつものミッション系私立学校が設立されていた。同志社や神戸女学院には本国からの外国人教師が派遣され、賛美歌に代表される西洋音楽との出会いの機会をもたらしていた。明治以降、神戸に外国人居留地が開かれていたことも、阪神間と西洋音楽との結びつきを強めていた。さらに、大正年間にはロシア革命後、亡命ロシア人音楽家たちが阪神間に居住するようになる。そういった西欧人からダイレクトに西洋音楽の教育を受ける道が開かれていたことは関西の洋楽受容の一つの特徴といえる。
後者は「日本人主体型」である。明治期には陸軍第四師団軍楽隊が大阪にて活動を始め、1914年(大正3年)には宝塚に少女歌劇団が創設される。また、明治期には、軍楽隊の流れをくむ管楽器や打楽器に加え、ヴァイオリン、オルガン、マンドリンなどが、つづいて大正期にはピアノが普及し始めた。1915年(大正4年)11月には、オーケストラ「羽衣管絃団」が第1回演奏会を開催(帝国座)。大正4年から7年にかけてと、短命に終わったオーケストラではあったが、最初期のオーケストラの代表的存在であった。1918年(大正7年)に生まれた「ピアノ同好会」「楽友会」といった音楽愛好家の活動も活発になる。明治、大正期においてさかんに開催された「慈善音楽会」とは、邦楽と洋楽の混合プログラムが当たり前であったし、新歌劇や世界音楽という当時のことばも、「西洋の模倣ではない、日本独自のスタイル」を追求するという意識を反映したものである。
とはいえ、東京に比べるなら、関西はまだまだ洋楽不毛の地であった。大阪音楽学校の誕生とその成長は、まさに関西洋楽界の成長とともにあったといえる。

1916年(大正5年)

大阪音楽大学の歴史

10月28日 創立一周年記念演奏会(土佐堀青年会館)

はじめての演奏旅行(大正5、6年頃、山陰地方)

山陰地方への演奏旅行
校長永井の故郷が鳥取であったことによる縁もあったのであろう。
教員を主にした25名の演奏旅行先には山陰地方が選ばれた。
汽車にのり、長い旅路をへての地方演奏会は西洋音楽の演奏にふれる機会が少ない地方都市への洋楽普及の意図と大阪音楽学校の存在をしらしめる効果も考えてのことであったろう。
しかし、この演奏旅行は大赤字であり、大阪に送金依頼の打電をしたという逸話が残っている。

山陰での演奏風景
(大正5、6年頃)

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関西音楽の歴史

日本人ソリストの演奏会が増える

12月10日 本学主催、久野久子の天王寺公会堂における独奏会
(大正5年12月11日 大阪毎日新聞)

日本人ソリストによる音楽会
大正に入り、日本人ソリストの名前が新聞の演奏会記事のなかに目立つようになってくる。
明治期には和洋混交(邦楽系の諸ジャンルと西洋音楽)の「慈善音楽会」が主だったのが、この頃になると西洋音楽のみの音楽会へと徐々に内容も統一されてくる。
1916年(大正5年)には、ピアニスト小倉末子、久野久子の名が冠された音楽会の記事が新聞に掲載されている。
久野久子が天王寺公会堂で、大阪音楽学校楽友会が主催する独奏会を行った際には、紋の入った黒い留袖でピアノを演奏する姿が掲載され、当時は演奏時の正装がいまだ洋装ではなく和装であったことがわかる。

1918年(大正7年)

大阪音楽大学の歴史

プログラム表紙

12月21日 創立三周年記念音楽会(大阪市中央公会堂)
中之島に完成したばかりの大阪市中央公会堂にて、本学生徒・教員による創立3周年を祝う音楽会が開催された。これが、中央公会堂における初めての音楽会となった
創立三周年記念音楽会
大阪市中央公会堂が落成してわずか一カ月、公会堂初の音楽会が、12月21日午後7時より開催された。
その夜の盛況ぶりを「階下はもちろん、階上も鈴なりの盛況」と大阪朝日新聞(12月22日)が伝えている。
全13曲からなるプログラムの冒頭は、永井作曲の校歌であり、フィナーレはやはり、永井作曲の合唱曲《凱旋》であった。出演者は教員と学生ほかであり、年々、舞台に登場させるに足るレベルの学生が増えてきたことをうかがわせる。
21世紀の今日も大阪のシンボルとして存在感を示す大阪市中央公会堂であるが、そのホールをはじめて満たした音楽は大阪音楽学校によるものであった。

創立三周年記念音楽会(中央が永井校長)

創立三周年記念音楽会プログラム
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関西音楽の歴史

11月17日 大阪市中央公会堂落成
(大正7年11月17日 大阪朝日新聞)

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関西で生産されたSPレコード
ラクダ印の「オリエント・レコード」(日蓄京都工場)
宝塚少女歌劇団「馬の王様」(前田牙塔作/高木和夫作曲/初演:大正7年/レコード発売日:大正8年頃)

大阪の文化的シンボル、大阪市中央公会堂
赤レンガの壁に青銅のドーム屋根が美しい大阪市中央公会堂は、1913年(大正2年)春に着工し、延べ18万4千人の職人と5年の歳月を経て完成した。商都らしく商人(株仲買人、岩本栄之助)の寄付によるものであった。
細部にわたり当時の建築の粋を集めた地上3階、地下1階のネオ・ルネサンス様式のこの建物の実施設計には東京駅などの設計者、辰野金吾らが関わっている。建設以来、コンサートをはじめ様々な催しに利用され、大阪文化の発信地として大きな役割を果たした。
老朽化のため一時は取り壊しの声も出ていたが、大阪市が市民の要望に応えて永久保存することを決定。2002年、3年半を費やした本格的保存・再生工事が完了し、国の重要文化財にも指定された。
音響のよいコンサートホールが数多く存在する現在においても、2006年に始まった「大阪クラシック」(音楽祭)などの催しで、この公会堂が使われるのは、大阪の文化的シンボル、ランドマークとしての存在感ゆえであろう。
その後、大植英次プロデュース「大阪クラシック」の演奏を公会堂で行うことになった大阪フィルハーモニー交響楽団から本学に「公会堂でこけら落としとなった音楽会の最初の演奏曲目は何ですか?」と問い合わせがあった。「こけら落しは、本学の創立三周年記念音楽会で、プログラムの一番目は校歌でした」と答えると、「校歌というのはちょっと大阪クラシックでは演奏できませんね」と困惑されてしまったという逸話がある。
レコードの普及とレコード・コンサート
日本人と蓄音機、レコードとの出会いは1879年(明治12年)東京大学講師ユーイングによって蓄音機が日本に紹介され、1903年(明治36年)天賞堂がアメリカのコロンビア社から円盤レコードを初輸入したことにさかのぼる。そして1907年(明治40年)日米蓄音機製造株式会社(現・日本コロンビア株式会社)が設立されて、国内でのレコード生産がスタートした。
レコードは大正期にめざましく普及したが、その発端は1914年(大正3年)に京都にあったオリエントレコードから発売された「カチューシャの唄」の爆発的ヒットによるものである。これは当時、松井須磨子が東京の帝国劇場で上演した「復活」の中で歌った劇中歌で、発売と同時に2万枚、最終的には27万枚を売り上げた。
現在のレコード会社は東京圏に一極集中しているが、明治期から昭和30年代までのSPレコードの時代には関西にも数多くのレコード会社ができ、のべ60社近くが興亡を繰り広げており、その間使われたレーベルは200種類近くに上ると言われる。大正期には関西が国産レコードの過半数を生み出していたのである。
大正7年頃からはレコード・コンサートという新しい催し物の形態も生まれた。普段生演奏では聴けないような世界の著名な音楽家の演奏を、会場に集まった人たちでレコードをかけて一緒に楽しむといったものであった。レコードの普及は後続のラジオ放送にさきがけて、洋楽の普及に大きな役割を果たした。

大正3年のオリエントレコード《復活》の発売広告(大正3年5月8日 日出新聞)

レコード演奏会のプログラム表紙(大正12年1月4日)

ピアノ同好会のレコード・コンサート(大正14年9月20日 大阪朝日新聞)

同プログラム


1919年(大正8年)

大阪音楽大学の歴史

《凱旋》表紙

2月 本学初の楽譜出版
永井幸次作曲の合唱曲《凱旋》の楽譜を発刊、この作品は人気を博し、59版、2万部を印刷、その収益はすべて学校維持費にあてられた。翌年よりこの作品を第1篇とする「合唱曲」シリーズの刊行が始まる
永井幸次の作曲活動
永井幸次は生涯に千数百曲の作品を作曲している。永井幸次の作曲ノートは100冊以上残されており、唱歌以外にも全国各地から校歌や団体歌の依頼を受けて作曲していた。
「合唱曲」シリーズが中学生向けであったのに対して、1922年(大正11年)には小学生向けの「小学校唱歌新教材」シリーズの出版が始まる。洋楽黎明期の作品需要、楽譜需要に応える楽譜出版の収益が高価な楽器を必要とする音楽学校を支える収入の一部となった。

永井幸次が自作中最も愛した曲とされる《菊》自筆譜(合唱曲シリーズ第30篇)

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関西音楽の歴史

9月〜10月 関西で初の本格的歌劇公演
《カルメン》の舞台(大正8年10月4日 大阪朝日新聞)
露西亜(ロシア)歌劇団公演
明治期からバンドマン喜歌劇団という外国からの団体も度々公演しており、浅草オペラ誕生の下地を作ったとされる。
大正時代は歌劇(オペラ)の時代と言われるほど、歌劇の流行が見られ(浅草オペラや少女歌劇の類)その結果として“オペラ・グッズ”と言われるような、オペラバッグ、オペラハット、オペラ石鹸、オペラレターペーパー、オペラウィスキーなどの“オペラ”と名のつく商品が次々に生み出されていった。「オペラ」という言葉が一般市民の間に流行語として広がったこの時期、いくつかの外国からの団体公演もあったが、音楽的な内容は決して高いものではなく、本格的なオペラ公演は露西亜歌劇団によるものが最初となる。それ以後カーピ伊太利歌劇団なども来日し、関西で公演を行っている。

公演チケット

9月26~29日 聚楽館(神戸)「アイーダ」「ファウスト」「ラクメ」「カルメン」「椿姫」
※28日は昼夜2回公演で、「ラクメ」(昼)と「カルメン」(夜)
10月3~5日 大阪市中央公会堂「カルメン」「椿姫」「アイ―ダ」
10月6~7日 岡崎公会堂(京都)「カルメン」「椿姫」
10月8~9日 東遊園地劇場(神戸)「ファウスト」「カルメン」

1923年(大正12年)

大阪音楽大学の歴史

3月 「N.T楽譜」シリーズ刊行開始
永井と盟友、田中銀之助のイニシャルから「N.T楽譜」シリーズとして大正から昭和にかけて数多くの楽譜を刊行し、その収益は学校運営にあてられた

「N.T楽譜」第1篇《舟遊び》表紙

関西音楽の歴史

プログラム表紙

3月:第四師団軍楽隊廃隊
5月8日:フリッツ・クライスラー関西初公演(神戸・聚楽館)
9日:同会場
10、11日:大阪市中央公会堂
14、16日:京都市公会堂

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6月:3月の軍楽隊廃隊をうけて大阪市音楽隊の誕生
8月頃:新生・大阪市音楽隊
9月1日:関東大震災
大阪市音楽隊の誕生
明治期から関西の洋楽普及に大きな役割を果たしてきた陸軍第四師団軍楽隊(明治21年、大阪着任)は、軍備縮小に伴い廃隊が決定、3月25日、長年にわたり“公園奏楽”を行ってきた天王寺公園奏楽堂において告別演奏会を開催。プログラムの最後はJ.ハイドンの交響曲《告別》の最終楽章で、奏者が一人ずつ退場していくという演出によって、つめかけた市民に別れを告げた。
同年、6月1日 廃隊を惜しむ声から、隊長林亘氏以下18名からなる大阪市音楽隊として生まれ変わる。以後、1946年(昭和21年)大阪市音楽団として名を改めた。大阪市直営廃止に伴い、2014年4月より音楽監督に宮川彬良氏を、芸術顧問に秋山和慶氏を迎え「一般社団法人大阪市音楽団」として活動を行っている。

大阪市音楽隊の初演奏会 大正12年8月4日、天王寺公園奏楽堂(大正12年8月5日 大阪毎日新聞)

1924年(大正13年)

大阪音楽大学の歴史

「大阪音楽学校楽友会」
楽友会は教育機関としての学校とは独立した団体として学校創立後まもなく設立され、楽譜の出版、演奏会の開催などの収益事業を行っていた。楽友会主催の演奏会の収入も当時の学校経営を支える財源となっていた

大阪音楽学校楽友会の書類 1924年(大正13年)校長自筆
(楽友会の収益が全額を寄付という形で学校の基金にされていたことが分かる)

関西音楽の歴史

2月 宝塚歌劇管弦楽団、第1回公演(大阪市中央公会堂)

ラスカ指揮の演奏風景(第4回 定期演奏会プログラムより)

ヨーゼフ・ラスカ指揮の宝塚管弦楽団
宝塚少女歌劇の第一回公演は1914年(大正3年)にさかのぼる。宝塚温泉の余興としてはじまった少女歌劇はしだいに関西に根づき、西洋の楽器や音楽を取り入れつつも、日本舞踊や邦楽の要素も兼ね備えた和洋兼備のユニークな歌劇文化をつくりだしていた。電鉄経営を柱に数々の事業を興した経営者、小林一三の発案と発想がこの歌劇団に生かされていたことはよくしられる。
1919年(大正8年)には宝塚音楽歌劇学校が誕生する。
一方、歌劇の伴奏をおこなう楽団もしだいに態勢が整えられ、管弦楽団としては初回にあたる公演(定期演奏会ではない)を、1924年2月23日夜、大阪市中央公会堂で開催した。前年に来日し、宝塚音楽歌劇学校の教授に就任していたオーストリア人、ヨーゼフ・ラスカを指揮者に迎えていた。第1回公演のプログラムは、定番のクラシック音楽やオペラからの抜粋曲のほかに、日本人の書きおろし作品による「新舞踊」を組み入れる独特の公演内容となっていた。
1926年(大正15年)には、ヨーゼフ・ラスカ指揮のもと、宝塚小劇場にて「第1回定期演奏会」を行った。演奏曲はベートーヴェン作曲交響曲第3番《英雄》、ワーグナー作曲《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕前奏曲などであった。
ラスカが日本を離れる1935年までのおよそ10年間、宝塚管弦楽団(交響楽団)は、日本初演も含めた数多くの交響曲を関西で演奏することになる。

1925年(大正14年)

大阪音楽大学の歴史

9月 味原校舎建設着工
大阪市味原町に、地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート新校舎の建設が始まる。日本家屋のわずか5教室から始まった音楽学校は、創立時の構想どおり、10年を経てようやく学校のかたちを外からも整えることになった

味原新校舎設計図

関西音楽の歴史

6月1日 ラジオ仮放送開始(本放送は翌年より)
試験放送風景(大正14年5月10日 大阪毎日新聞)

10月 JOBKオーケストラ結成
練習風景(大正14年10月31日 大阪毎日新聞)

ラジオ放送、最初の放送音楽
1925年(大正14年)2月、社団法人「大阪放送局」(JOBK,現NHK大阪放送局)が設立され、5月、大正天皇の銀婚式奉祝にあわせて、三越呉服店の屋上に作ったバラック建ての仮の放送施設から、試験放送を行った。
大阪放送局、最初の放送曲となったのは、西天満小学校尋常5、6年生の女生徒33名による「君が代」。そのあとニュースや邦楽などもあり、洋楽は清水谷高等女学校生の奉祝合唱及び独唱、片山静子のピアノ独奏、土屋元子のヴァイオリン独奏などが続いた。
当時はまだミキシングの技術がなかったので、各楽器の音のバランスを調整するために、ピアノやヴァイオリンなどの演奏者を乳母車に乗せて放送室内を移動させながら実験し、各楽器がマイクからどれだけ離れて演奏すればよいかを地図のように書いて、その指示ポイントから演奏を行ったという。
20日間の試験放送を行ったあと、6月1日に仮放送(本放送は局の建物ができた翌年から)が開始された。
ラジオ放送は、大正時代に普及したレコードとともに、海外の著名音楽家の演奏に一般市民がふれることを可能にし、洋楽の普及に大きく貢献することになる。
JOBKオーケストラの結成と初放送
1925年(大正14年)10月、大阪放送局内にJOBKオーケストラが結成され、指揮者、ハインリッヒ・ヴェルクマイスター(東京音楽学校のチェロ教師)のもとに組織された楽団員と、ピアニスト、パウル・ショルツ(東京音楽学校教授)によってベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番《皇帝》作品73ほかが初放送された。ヴェルクマイスターがほどなく離任したあとを引き継いだのが、ロシアからの亡命指揮者、エマニュエル・メッテルであった。ハルビンで交響楽団を指揮したのち来阪し、朝比奈隆、服部良一にペテルブルク音楽院仕込みの和声学や指揮法などを教えた人物である。メッテルはこのラジオ放送用オーケストラと京都大学オーケストラを指導し、戦前の関西洋楽界のオーケストラの水準を高めることに貢献した。

ハルビン時代のE.メッテル
(『猶太人在哈爾濱』2003年より)

1926年(大正15年)

大阪音楽大学の歴史

4月1日 大阪市天王寺区味原本町に建設された新校舎にて授業開始

4月1日 大阪市天王寺区味原本町に建設された新校舎にて授業開始
新学則のもと昼間授業へ(男女別クラス)鉄筋コンクリート校舎

味原校舎練習室(昭和5年頃撮影)

味原町の校舎
地下1階、地上3階の味原校舎(鉄筋コンクリート)は、大阪城から南へ2キロほどの味原本町(現在の高津高校の南隣)に建設された。難波にも近い大阪市の中心部に近代的な校舎を建てることができた。そのときの感慨を永井は文章として残している。そしてそのなかの下記の部分は現在も「建学の精神」として受け継がれている。
「永遠之の学校が大大阪否な関西音楽の中心となるべき発達を遂げ 終に世界音楽並に音楽に関連せる諸般の芸術は之の学校によって統一され 新音楽新歌劇の発生地たらんことを祈願するものなり」(ひらがな部分は原文ではカタカナで表記されている)
当時の関西洋楽界はいまだ揺籃期にあり、このことばには、音楽学校こそが人材を育て、音楽文化をつくりあげていく、という気概がこめられている。夜間から昼間の授業へとようやく学校としての体制が整ったのもこの時期からであった。

味原校舎屋上にて(撮影日不祥)

関西音楽の歴史

無声映画(楽隊つき)の上映は明治末期以降、昭和初期まで続く

無声映画の広告 幕奏楽《カルメン》松竹管絃楽団演奏(大正15年7月25日 大阪朝日新聞))

10月9日 大阪朝日会館開館(大正15年10月4日 大阪朝日新聞)

12月1日 大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)ラジオ本放送開始
12月25日 大正天皇崩御 昭和と改元
大阪朝日会館が果たした役割
大阪朝日新聞創業50年を記念して、社会への利益還元の事業の一つとして中之島に建設された大阪朝日会館は、地上6階・地下1階で黒い壁に窓を金色に縁取った、ひときわ目をひく外観であった。4~6階部分が1600席の多目的ホールとなっており、冷暖房、最新の照明、映写装置を備え、当時の音響技術の粋を凝らして作られていた。
会館ができて以降「朝日新聞社会事業団」(現・朝日新聞厚生文化事業団)主催として、内外の著名な演奏家を招いて自主公演を行うなかで、関西で一流演奏家がステージに立つ場合は朝日会館、という時代を築いたことになる。
関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)を育て、固定ファンのための機関誌『会館芸術』を発行、音楽教室を開いたり、勤労者が割安な団体料金で音楽鑑賞ができる全国初のシステムとなった大阪労音(大阪勤労者音楽協議会)を擁するなど、後継のフェスティバルホール(1958年開館、場所は異なる)にその役目を譲るまでの30年あまり、昭和前期の関西洋楽文化の普及に大きな役割を果たした。もちろん、西洋音楽やオペラのみならず、能楽など日本伝統演劇、バレエ、演劇、映画など、ありとあらゆるジャンルがステージに登場した。
朝比奈隆は本学発行の『大阪音楽界の思い出』(1975年)の中で、「朝日会館が登場して、昭和の音楽の聖地となる」とし、その姿を消してもなお「その生命は永久に芸術を愛し文化を尊ぶ大阪の人々の心に生き続けるのである」と述べている。

朝日会館内部(大正15年10月6日 大阪朝日新聞)

「朝日」にちなみ、太陽神ラーを奉るエジプト調のデザインで、緞帳や両脇の柱にはパピルス文書に描かれた絵があしらわれていたという

10月29日 近衛秀麿指揮 新交響楽団(現・NHK交響楽団)の関西初公演(大正15年 月日不祥 大阪朝日新聞)

『会館芸術』1932年(昭和7年)第5号

朝日会館における初のオーケストラの演奏会でもあり、ベートーヴェン《交響曲第4番》、ワーグナー楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕への前奏曲、J.シュトラウス《美しく青きドナウ》などが演奏された。

1927年(昭和2年)

大阪音楽大学の歴史

3月 乙種師範科第1期生卒業
10月15日『唱歌研究』(大阪音楽学校小学唱歌研究部)創刊
学校教員向けの楽譜、指導法、諸研究をまとめた小冊子、唱歌教育の普及を目的に刊行

12月17日 職員生徒大演奏会(朝日会館)
60名からなる混声合唱団が出演、当時これだけの規模の混声合唱は珍しいものであった

新校舎移転を機に学生からの申し出により、校章が現行のものに変更される
旧校章は音の文字を組み合わせ大阪の大の字をかたどっていた(左)
新校章は樂の文字をデザイン化した学生考案のもの(右)

大阪音楽学校楽友会が刊行した楽譜と教科書
『唱歌研究』を発行したこの時期、他にも数多くの出版物が大阪音楽学校楽友会から刊行されている。

  • 1926(大正15)年10月5日「キヨシ楽譜」シリーズ
  • 1927(昭和2)年12月10日「新歌曲」シリーズ
  • 1929(昭和4)年3月20日「昭和女子音楽教科書」(全5巻)
           9月15日「昭和声楽教科書」(全3巻)
  • 1931(昭和6)年2月10日「昭和中等音楽教科書」(全3巻)
  • 1932(昭和7)年3月5日「昭和中等音楽教科書」(伴奏編)
           4月15日「新興讃歌」(全2編)
           8月20日「読譜練習」(全5巻)
           9月25日「昭和実科女子音楽教科書」(全3巻)
  • 1933(昭和8)年5月25日「記念唱歌集」

昭和女子音楽教科書
巻之一 表紙

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関西音楽の歴史

12月 エフレム・ジンバリスト3度目の来日公演
4、7日:大阪市中央公会堂
5日:京都市公会堂

中央公会堂での演奏会(昭和2年12月5日 大阪毎日新聞)
11月26日 音楽オリンピック・ゲーム開催(宝塚大歌劇場)
関西で初めて、宝塚交響楽協会主催による合唱の競技会が行われ、日本のグリークラブとして最古の歴史を持つ関西学院グリークラブをはじめ、阪神2都8合唱団、男女200余名の参加があった。とき同じくして、その2日後、関東では関東合唱連盟の前身である「国民音楽協会」が設立され、第1回合唱競演大音楽祭が日本青年会館(東京)で開催された。
戦後各地に合唱連盟ができるが、1948年(昭和23年)11月23日全日本合唱連盟へと総括され、そのとき同時に朝日新聞との共催で行われた全日本合唱コンクールは、70年近く経った現在も続いている。ちなみにこのコンクールと並んでわが国の二大合唱コンクールの一つとされるのが、1932年(昭和7年)に児童唱歌コンクールとして始まった、現在のNHK全国学校音楽コンクールである。これら両コンクールは「朝コン」「Nコン」という愛称で、合唱愛好者の間で広く親しまれている。
コロンビア洋楽レコード(国内プレス盤)の製造開始
この年、国内プレスによる洋楽盤がコロンビアレコード(日本蓄音器商会、1910年創業)から発売された、いわゆる黒盤である。そののち、1931年(昭和6年)にコロンビアの商標を米国コロンビアから譲り受け、現在のコロンビア・マークに統一することになる。
大手海外レコード会社の国内生産開始がこの時期に集中している。
1924年(大正13年)、前年に起こった関東大震災の影響で、政府による“ぜいたく品追放”の施策により、海外からの蓄音機、レコードに100%の輸入税がかけられることになった。痛手を受けた海外のレコード会社はこぞって日本でプレスを行う現地生産を始めるようになった。
  • 昭和2年5月 日本ポリドール蓄音器商会設立(独グラモフォン株式会社)
  • 昭和2年9月 日本ビクター蓄音器株式会社設立(米ビクター株式会社)
  • 昭和3年1月 日本コロンビア蓄音器株式会社設立(米コロンビア株式会社)

1928年(昭和3年)

大阪音楽大学の歴史

3月 甲種師範科第一期生卒業

5月15日 味原校舎の増築(木造3階)
左奥に増築部分
永井校長一家も新校舎に居住
授業科目が増えたことで教室や練習室が不足するようになったため、隣地を買収し、木造3階建ての校舎を建設した。
練習室26室や男女1室ずつの控室など、36室を増築し、旧校舎と合わせると全部で70室となった。
増築部分には、大家族の校長一家が一時期住んでいたという居住室もあった。
<旧校舎>34室 <新校舎>36室
校長室 1 教室 4 男子控室 1
職員室 1 練習室 15 女子控室 1
事務室 2 講堂 1 練習室 26
応接室 1 図書室 1 教室 2
宿直室 2 倉庫 2 楽譜室 1
使丁室 1 校長居住室 8

学生控え室にて
(撮影日不詳)

関西音楽の歴史

7月 大阪に「日本音楽家連盟」新設
「各種音楽家の相互扶助と音楽の民衆化を目的とした日本音楽家連盟が大阪北区中之島二ノ二一ジャパン・ミュジック・ニュース社内に新設された」(昭和3年7月26日 大阪毎日新聞)

11月1日 天王寺音楽堂竣工(昭和3年11月2日 大阪毎日新聞)


1929年(昭和4年)

大阪音楽大学の歴史

3月 本科第1期生 卒業
7月10日 学生による『楽友』創刊 演奏活動報告など掲載

3月 増築された味原校舎のイラストつき大阪音楽学校募集記事(昭和4年3月7日 大阪毎日新聞)

創刊号に掲載された集合写真

(前列には教員9名、後列には卒業生)
前列左より、教員の長井斉、内藤俊二、水野康孝、永井校長、永井潔、田中輝孝、松本仙、片山静子、永井八重子
10月26日 伊達三郎セロ独奏会(土佐堀基督教青年会館)
伊達三郎は大阪音楽学校教員であるが、チェリストとしてソロ活動、ラジオ放送出演、オーケストラ活動、と大活躍をした音楽家であった。大正期に東京でリサイタルを開くなど大阪や関西に限定されない名声を得ていた。「伊達氏はセリストとして我が国屈指の名手」(昭和5年8月15日 大阪毎日新聞)と写真入りで紹介されている。大正から昭和前期にかけて、彼の名前は、ヴァイオリンの田中平三郎、ピアノの片山(永井)静子、声楽の永井八重子らとともに毎月のように、ラジオ放送プログラムに登場していた。
最後の朝日会館館長(4代目)となった十河厳(そごう・がん)は彼の肖像画(制作年代は不明)にそえて「長い間オーケストラが無かった大阪に、初めて関西交響楽団が結成された時、リサイタル活動を続けていた伊達三郎さんは、喜んで関響の一楽団員として参加し、創始当時の楽団に、どれだけ生彩を添えたか知れなかった」「物静かなチェロイスト〔ママ〕だった。早く亡くなって、全く惜しい人だった」と記している(十河厳著『あの花この花』1977年 中外書房)

関西音楽の歴史

3月26日:ベートーヴェン《交響曲第9番》関西初演(朝日会館)
27日:京都市公会堂
28日:関西学院講堂
近衛秀麿指揮、新交響楽団(現・NHK交響楽団)、東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)生徒160余名の合唱により演奏された
10月24日:世界恐慌 ウォール街株式市場大暴落
10月30日:アンドレス・セゴヴィア関西初公演(朝日会館)
11月2日:同会館
11月1日:京都市公会堂
11月4日:神戸基督教青年会館

アンドレス・セゴヴィア ギター独奏会(朝日会館)プログラム


1930年(昭和5年)

大阪音楽大学の歴史

2月23日 第一回公開大演奏会(大阪市中央公会堂)
教員による独奏のほか混声合唱が披露された。公演は大成功をおさめ、収益でブリュートナー製のグランドピアノほか管楽器を購入した

4月24日 大阪音楽学校生徒 ラジオ初出演
大阪中央放送局で、混声合唱による《君が代》を放送した。これ以後もしばしばラジオ出演を重ねる

関西音楽の歴史

昭和4年12月30日 大阪毎日新聞

1月16日 オール・オーサカ・コーラスコンテスト(大阪中央公会堂)

右は本学で練習する大阪ゲミシュテンコール
コーラス・コンテストに参加した団体とメンバーたち
東京音楽学校卒業生同声会主催「西洋音楽渡来50周年記念音楽会」の第一部で、在阪8つの合唱団によるコンテストが行われ、総勢300名あまりが参加した。このときのプログラムには8つの団体の参加者名も記載されている。参加者たちの子孫にとって貴重な記録であろう。
また、この年の11月には関西各大学専門学校合唱団体による合唱連盟が結成された。加盟したのは、このコンテストにも参加していた大阪商科大学グリークラブや関西学院グリークラブをはじめ10団体で、約300名の部員が在籍していた。
翌1931年(昭和6年)1月16日に朝日会館で行われた第1回音楽会では、当時合唱の指揮者として活躍していた本学教授の長井斉が指揮をしている。

オール・オーサカ・コーラスコンテスト 出演者人名表