パイオニアとして歩み続けた1世紀

1915年(大正4年)10月15日。授業開始日のその日は金曜日で、校則により男子生徒の授業であった(当時、男女共学は許されなかったため月水金曜は男子、火木土曜は女子とされていた)。ちょうど狩猟の解禁日で、早朝から淀川、築港あたりで銃声が鳴り響いていたという。それから100年──2015年(平成27年)10月15日木曜日。本学にとって歴史的な一日となるこの日、大阪は穏やかな秋晴れに包まれた。

1958年(昭和33年)の四年制大学昇格の時以来、記念すべき日を迎えてきた中之島フェスティバルホールで、創立100周年の記念式典と特別演奏会を開催した。式典には来賓、本学関係者、卒業生、在学生ら約1,500名が出席。開会の辞が宣言され、池田重一教員指揮の力強いファンファーレで式典が始まった。国歌斉唱の後、中村孝義理事長が式辞を述べ、スクリーンに投影した写真とともに本学100年の歩みについて、「関西音楽界の発展の中に本学の歴史を刻んで来た」と語った。そして、「新音楽 新歌劇ノ発生地タラン」という建学の精神を受け継ぎ、本学から日本の音楽文化を牽引していきたいとの決意を力強く宣言した。。

続いて武藤好男学長が101年目に開設する2つの新専攻と将来の展望、社会における芸術の貢献について述べた。来賓の挨拶が続き、学生、卒業生、教員、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団・同合唱団による特別編成の「大阪音楽大学創立100周年記念管弦楽団・同合唱団」が上塚憲一教員の指揮でエルガー《威風堂々》を祝奏。最後は100年歌い継がれた創立者永井幸次作詞作曲の校歌が出席者全員の演奏で会場を満たし、厳かに式典を締めくくった。

式典後に開催した創立100周年記念特別演奏会では、さらに増員した「大阪音楽大学創立100周年記念管弦楽団・同合唱団」総勢約300名が、ホールを埋めた約2,000人の聴衆を前に、卒業生の西本智実客員教授の指揮で100周年を祝う「歓喜の歌」を高らかに演奏した。

「大正四年 豊秋に わが大君は 高御座 のぼりまししを ことほぎて 開き始めし このまなびや」──本学校歌にあるように、この年の11月に大正天皇の即位儀礼である御大典が行われた。このめでたき日に向けて文部省が募集した《御大典奉祝唱歌》に応募した永井の作品が、応募総数1,629曲の中から選外第一席(佳作)に選ばれた。小学唱歌には程度が高すぎると承知していたが、西洋人などに聞かれてもはずかしくない曲だとして、永井はこの曲を当時まだ申請中であった本学の校歌にすることを思いつく。そして自ら付したのが先の歌詞である。この受賞により手にした賞金百円が学校設立の基金となった。同年10月5日に大阪府から認可が下り、11日に開校。15日が冒頭に述べた授業開始日であり、この日をもって創立日と定めた。校長となった永井41歳の時である。大阪市に寄贈された南区塩町(現・南船場)の医師藤中泰の旧邸を市から無償で借り受け、木造2階建て、和室5部屋の教室兼練習室に自身のピアノ1台、オルガン2台を運び込み、本学の歴史が始まった。
以来、音楽不毛といわれた大阪の地に、永井は生涯をかけて関西音楽界を切り拓き、本学創立から半世紀の1965年(昭和40年)、この世を去った。永井亡き後の半世紀、本学はその大志が刻まれた建学の精神を受け継ぎ、次々に創立者の夢を実現した。音楽幼稚園、大学院設立、邦楽やジャズ・ポピュラー部門の導入、そして日本初のオペラハウスの建設。それらはまさに永井が歩んだパイオニアとしての道を追求し続けるものであった。大学、短大、大学院を擁する関西唯一の音楽単科大学として、のべ35,000人を超す音楽人を世界に送り出し、創立100周年を迎えた。「世界音楽 並ニ 音楽ニ関連セル諸般ノ藝術ハ 之ノ学校ニヨッテ統一サレ…」と永井が願った言葉の通り、現在、本学にはクラシック、邦楽、ジャズ、ポピュラー、電子オルガン、ミュージカル、ダンスパフォーマンスまで大学、短大合わせて15の専攻・コースがある。そして創立から101年目を迎える今、新校舎設立、大学に2つの新専攻開設と、これからの100年に向かってまた一歩、次なる道を進もうとしているのである。