大阪フィルに新リーダー就任

その強力な目力。実に表現豊かな渾身の棒さばき。正しく指揮者になるべくして生まれてきたような独特のオーラと人情味。大植英次はそれらを一身に備え、2003年4月、朝比奈隆亡き後の大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督に迎えられた。その前年4月に人事が内定されるや、様々な紹介記事が主要日刊紙の紙面に踊った。

1956年(昭和31年)広島で誕生、桐朋学園大学で齋藤秀雄に指揮を学び22歳で渡米。タングルウッド音楽祭でレナード・バーンスタインに師事、後に助手を務める。ペンシルヴァニア州の地方オーケストラ、エリー・フィルハーモニック音楽監督(1991-1995)、次いで歴史あるミネソタ管弦楽団音楽監督(1995-2002)を務め、コンサートのみならず学校巡回やボランティアなどのアウトリーチも積極的に行い、広く市民から愛された。

ミネソタ管を退任する大植に大阪フィルが音楽監督就任を打診したのは、まさにその壮年活発な行動力と地域社会に溶け込む才覚を大いに買ってのことだった。実のところ、大植が音楽監督就任以前に大阪フィルに客演したのは、95年5月、96年6月の2回を数えるのみ(共にマーラーの交響曲を指揮)。この僅かな共演にして、楽団との相性がいかに良好なものであったかが窺い知れよう。

大阪フィル側も新しい音楽監督を迎えるにあたり、2003年度(平成15年度)より定期公演会場を従来のフェスティバルホールよりザ・シンフォニーホールへと移し、2日間公演とするなどの英断を下した。大植の音楽監督就任披露公演となったのは第368回定期演奏会(2003年5月9、10日)で、「朝比奈隆の火が新たに燃え上がる」という意味合いも込めてマーラーの《交響曲第2番「復活」》を指揮。数々の批評家より高評価を得た。就任翌年には定期演奏会におけるオペラ公演(演奏会形式)をはじめ、2006年(平成18年)には大阪城西の丸庭園での「星空コンサート」や、大阪御堂筋周辺の店舗やショールームなどで開催する「大阪クラシック」をプロデュース。伝統ある大阪フィルの次代を切り拓くニュー・リーダーとして、また新たな聴衆の開拓者として、「大植効果」を見事に発揮することになる。

大植が指揮者として日本でプロ・デビューを果たしたのは1985年(昭和60年)8月。被爆40周年を記念し「平和記念コンサート」として広島で開催された、バーンスタイン率いるECユース・オーケストラ公演に同行してのことだった。以来、米国を中心に世界的に活躍し、「いつか日本に恩返しを」願っていたという大植。その念願の地として定めたのは、ほかならぬこの大阪だった。
 

音楽監督就任披露公演となった
第36回定期演奏会チラシ

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