朝比奈隆、喝采の彼方へ

2001年(平成13年)9月24日、仲秋のザ・シンフォニーホール。朝比奈隆はブルックナー最後の交響曲、第9番の指揮を終え、大阪フィルの団員たちが引き上げた舞台に、ただ一人佇んだ。舞台の下手に立ち、総立ちとなった聴衆の万雷の拍手を一身に受ける朝比奈。この感動的なカーテンコールを含む大阪最後の演奏会全篇を記録した映像(朝比奈隆 シンフォニーの世界II[DVD])は、その年の夏以来の疲れで体調を崩し、驚くほど痩躯となった朝比奈の姿を赤裸々にとらえたものでもあった。

翌10月24日、朝比奈は大阪フィルを率い、「2001名古屋演奏会」(愛知県芸術劇場コンサートホール)の舞台に立つ。顔面蒼白にして指揮台に立っているのがやっとの体であった朝比奈を前に、楽員は万感の思いを胸に涙して演奏したという。チャイコフスキーの《交響曲第5番》を振り終え、介添えを得て指揮台を降りた朝比奈は、もはや鳴りやまぬカーテンコールに応えることは叶わなかった。大阪フィルを率いて半世紀余り、これが人生最後の舞台となった。翌日の緊急入院は新聞各紙で報道され、2か月余りの闘病生活を送るも、12月29日に93歳の生涯を全うし朝比奈隆は現世に別れを告げた。

1908年(明治41年)東京で生を受け、旧制東京高等学校ではヴァイオリンに親しみ、京都帝国大学(現・京都大学)に進んだ朝比奈。この経歴を生かし、後年政財界などで名を成した同窓生たちを貴重な人脈としたことはよく知られるところである。そしてこの修学時代、京都帝国大学音楽部(現・京都大学交響楽団)在籍中に、ユダヤ系ロシア人指揮者のエマヌエル・メッテルから多大な薫陶を受け、指揮者としての素地を固めた。戦前の日本における西洋音楽の普及と発展の中で指揮者としてのキャリアを磨き、戦後は焦土と化した大阪の地でオーケストラを組織し、また歌劇団を立ち上げ、この両輪の活動のもとに関西楽壇を牽引していった。「『その都市にオーケストラがあれば、オペラもバレエも育つ、楽団員は音大の教師となり、学生は楽団員になる』という自説」(野口幸助著「幸助のステージとーく」)を持ち、その信念に生きた気骨の音楽家であった。

朝比奈は1934年(昭和9年)、本学の前身である大阪音楽学校に奉職し、1937年(昭和12年)に教授に就任。音楽史や美学の講義のほか合唱指揮なども行い、音楽教育者として関西における音楽文化の根幹をなす人材育成に携わった(1978年に名誉教授となる)。1950年代にはオペラと歌舞伎に相通じる様式美を見い出し、武智鉄二演出による歌舞伎調のいわゆる「武智オペラ」を世に問うたほか、「関西は創作オペラのメッカ」と謳われた斬新な創作オペラシリーズを関西歌劇団において展開。また、1963年(昭和38年)より開催された「大阪の秋」国際現代音楽祭では数々の現代音楽を初演し、その振興に大きな足跡を残している。1970年代末より首都圏でも指揮者朝比奈の名声は飛躍的に高まり、聴衆の中には若年層が目立ち始める。これは、朝比奈晩年のコンサートにおける若い世代を中心とした儀式の如き熱狂的なスタンディング・オヴェイションを予兆するものであった。燕尾服に身を包み、美しい白髪に老眼鏡というあの風格ある朝比奈の晩年の出で立ちは、現代社会の中で失われゆく「絶対的な父性」の象徴として聴衆の目に熱く映っていたに違いない。

「愚直」という言葉を好み、常に精進を怠らず、高い教養を備え、最期の時まで音楽への情熱を失わなかった朝比奈隆。若き日にはサッカーに明け暮れ、しゃがれ声ゆえ「ガサ」と呼ばれ、就職した阪急では運転中にヴァイオリンを練習、酒豪にして猫好きなど、実に大らかで人間味溢れる数々のエピソードに事欠かない生涯であった。70歳代末より、コンサート指揮者としてレパートリーを厳選し、ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスなどで表した他の追随を許さぬ懐深い独自の世界。まさにそれは、朝比奈隆という全人格、全人生の縮図そのものであったように思う。

 

【朝比奈隆 概歴】
 

1908年 
1922年  (14歳)
1928年  (20歳) 
1931年  (23歳) 
1933年  (25歳) 
1934年  (26歳) 
1936年  (28歳)
1938年  (30歳) 
1940年  (32歳)
1942年  (34歳) 
1943年  (35歳)
1944年  (36歳)
1945年  (37歳) 
1947年  (39歳) 
1949年  (41歳) 
1953年  (45歳) 
1963年  (55歳) 
1972年  (64歳) 
1975年  (67歳) 
1978年  (70歳)
1983年  (75歳) 
1984年  (76歳) 
1986年  (78歳) 
1994年  (86歳) 
1996年  (88歳)
1999年  (91歳) 
2001年  (93歳) 
2002年
東京・牛込(現・新宿区)に誕生
東京高等学校尋常科(中等部)に入学
京都帝国大学(現・京都大学)法学部入学
京大卒業後、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に入社
阪急を退社し、京大文学部哲学科に学士入学。大阪室内楽協会を設立
大阪音楽学校(現・大阪音楽大学)に奉職
大阪音楽学校創立記念音楽会にて指揮者として初の舞台に立つ
京都帝国大学音楽部(現・京都大学交響楽団)常任指揮者に就任
新交響楽団(現・NHK交響楽団)を指揮し東京デビュー
大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)専属指揮者に就任
当時の大東亜省の委嘱により上海交響楽団の指揮者を務める
旧満州国にわたり新京(現・長春)の交響楽団、ハルビン交響楽団を指揮
ハルビンで終戦を迎え、難民となるも翌年帰国し指揮活動を再開
関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)結成
関西オペラグループ(現・関西歌劇団)結成
単身初の海外指揮旅行(ヘルシンキ)。1956年にベルリン・フィルに初客演
「大阪の秋」国際現代音楽祭開催
大阪フィル第100回定期演奏会でマーラー《千人の交響曲》を指揮
大阪フィル初の欧州楽旅、翌年同団の音楽総監督となる
邦人初のブルックナー全交響曲録音を達成、 ジャン・ジャンより発売
音楽生活50年を記念した演奏会を各地で開く
関西歌劇団で最後の指揮をとる
ザ・シンフォニーホールにおける「朝比奈隆の軌跡」シリーズ開始
文化勲章受章
シカゴ交響楽団に客演
23年振りに大阪音楽大学管弦楽団を指揮
12月29日永眠、直接の死因は食道癌とされる。31日、近親者のみで密葬
1月25日、従三位に叙せられる



 



大阪における最後の公演を記録したDVD
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2002年(平成14年)12月 大阪フィルハーモニー協会発行
朝比奈隆、生涯最後の演奏となったチャイコフスキー《交響曲第5番》を収録したCDが付録として収められた

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