阪神・淡路大震災における関西楽壇

1995年(平成7年)1月17日、戦後半世紀間における最大規模の自然災害が近畿圏の広域を襲った。淡路島北部(北緯34度36分、東経135度02分、深さ16km)を震源とするマグニチュード7.3(最大震度7:当時の観測史上最大)の「兵庫県南部地震」である。連休の明けた火曜日。あまたの人々が新たな朝を迎えようとしていた、午前5時46分のことであった。この大地震は、死者6434名(死因の約8割が建物の倒壊による圧死であったとされる)、行方不明者3名、負傷者43792名、住家全壊104906棟、住家半壊144274棟、焼損棟7574件(2006年5月19日消防庁確定)という、未曽有の被害をもたらした。震災の翌月、日本政府は被害の甚大さに鑑みて、この災害呼称を「阪神・淡路大震災」とすることを閣議決定した。

1991年(平成3年)のバブル崩壊による関西の景気の低迷と不況下に起こったこの震災は、追い打ちをかけるように様々な社会分野に多大な影響を及ぼしたが、無論関西楽壇もその例外ではなかった。阪神間の音楽関係者たちの被災や、コンサート会場の損傷、ライフラインの寸断による交通網の混乱などにより、フェスティバルホールで震災当日開催予定であった大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会(第286回、岩城宏之指揮)の急遽中止をはじめ、以後数ヶ月にわたり多数の演奏会がキャンセル、延期を余儀なくされた。個人演奏家はもとより、特にオーケストラは依頼演奏の契約解消などにより、多大な打撃を被ることとなった。

しかし、このような中にあって、数多くの音楽家たちは「音楽」による被災者支援にすぐさま立ち上がる。大阪センチュリー交響楽団は、第26回定期演奏会(1月26日:ザ・シンフォニーホール)を急遽、救援チャリティー公演として開催した。阪神間を拠点に活動していた日本テレマン協会は楽員たちの大半が被災者であったが、震災の翌月に被災地へ赴き、初の無料慰問コンサート(2月15日:神戸文化ホール)を行った。同ホールは避難所となっており、ロビー付近を仮設の演奏場としてバロック音楽や日本の歌などを演奏した。外来の演奏家たちも被災者支援を行い、ボザール・トリオ(2月19日:イシハラホール)、レナード・スラットキン指揮セントルイス交響楽団(2月23日:神戸オリエンタル劇場)などが、チャリティ・コンサートや無料コンサートを開催している。

そして3月には、音楽ユニオン関西の呼びかけにより大規模なチャリティ・コンサート、「復興の日々に-励ましのコンサート」が開催される(3月13日:ザ・シンフォニーホール)。関西の9つのオーケストラ(大阪フィルハーモニー交響楽団をはじめ、テレマン室内管弦楽団や本学のザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団などが参加)からなる202名の特別編成オーケストラ、9つの合唱団(関西歌劇団や関西二期会、ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団などが参加)からなる198名の特別編成コーラス、そして神戸の自宅で被災した指揮者の朝比奈隆や、辻久子などのソリストを含む総勢400名以上の有志が一堂に会した。正に関西の楽壇が一丸となった復興支援コンサートであり、約1000万円に上った収益金は義援金として日本赤十字大阪支部へ寄付されることとなった。

初夏には関西楽壇は震災から一種の落ち着きを取り戻し、死者への追悼コンサート、そして戦後50年目ということもあり平和への祈願をこめたコンサートが、アマチュアを含め多く開かれるようになる。秋のシーズンに入ると、全壊した神戸国際会館が神戸ハーバーランドに早くも仮設ホール(神戸国際会館ハーバーランドプラザ)の建設を始めるなど、震災からの立ち直りが示され、大阪ではほぼ常時の音楽情勢へと軌道が戻った。そしてこの年の暮れ、「鎮魂・復活・希望」をテーマに掲げた第13回サントリー1万人の「第九」コンサート(12月3日:大阪城ホール)が開催された。被災地から神戸フィルハーモニックや神戸市混声合唱団などが参加。テレビの二元中継で神戸と大阪を繋ぎ、人々の絆、結束を願うベートーヴェンの《第九》が歌い上げられた。