日本初のオペラハウス着工

1987年(昭和62年)11月6日、新ホール着工当日、「大阪音大、日本初のオペラハウス建設」の文字が新聞各紙を賑わした。約20年前より、東京にオペラハウスとして第二国立劇場の建設計画が立ち上がるも、諸般の事情から計画段階で長引き、完成のめどが立たない中、この一私立大学の快挙は、音楽関係者のみならず人々の大きな関心を呼んだ。時はちょうど1980年代後半のいわゆる“バブル”といわれた時代で、音楽界にあっても最も豪華で華やかな芸術として、オペラがマスコミ等から“オペラブーム”ともてはやされていた頃であった。

1981年(昭和56年)に発足した施設総合整備計画委員会からの答申に始まり、創立70周年事業へと引き継がれた新ホールの建設は、計画当初、講堂兼ホール程度のものが考えられていた。だが、学内で討議を重ねるうちに、“総合芸術”オペラの本格公演ができるホール、そのために多くの人たちが結束、集中して新しい芸術を作り上げていく音楽運動の拠点こそ必要だという意見に集約されていった。当時の田中喜一理事長の言葉によれば、「音楽の単科大学だけに、いい音を作りたい、という一点で一致した」という(平成元年5月4日 産経新聞)。そしてこれはまさに創立者永井幸次が「新音楽 新歌劇の発生地たらん」と夢見た本学の建学の精神を具現化するものであった。このことから新ホールの名称を“大阪音楽大学永井幸次記念講堂”と命名。A号館から始まる本学の建物としては12番目のL号館であった。公募により「ザ・カレッジ・オペラハウス」の愛称が付けられたのは1988年(昭和63年)12月のことである。

着工1年前の1986年(昭和61年)にプロジェクト・チームを結成、設計会社とともに構想を練った。夢のオペラハウス建設とあって、学内からは多くの声が寄せられ、それらアイデアの取捨選択に1年近くを要した。その結果、オペラ上演に適した舞台構造・舞台空間の確保、馬蹄形の客席、間口可変のプロセニアム、移動式のライトタワー、奥行可変の音響反射板、セリ構造のオーケストラ・ピットなどのホールの“個性”が絞り込まれ、「コンサート・ホールの機能も備えたオペラハウス」の基本イメージが確立した。

工事に際し最も苦心したのは、地盤対策と航空機騒音対策である。庄内は弥生時代初期まで海で、長い年月をかけて土砂が堆積したが、本学が移転して来た1954年(昭和29年)当時は田んぼと池が点在する土地であった。地盤の悪さを克服するために、地下15mの深さまで143本もの杭を打ち込むことになった。また、敷地の真上を飛ぶ飛行機の騒音に対しては、外壁や天井を厚さ25cm、15cmのコンクリート板を二重、三重にした上で、騒音が集積しないよう外壁のくぼみをなくすなど、設計に工夫を凝らして徹底した遮音性を追及した。

こうして進められた国内初のオペラハウス造りは、月にのべ4,000人の工事関係者により17ヵ月の工期を経て、1989年(平成元年)3月、完成の日を迎えるのである。