大音オケの生みの親、勇退

本人の希望により、定年を前に昭和56年度末をもって、宮本政雄教員が退職することとなった。突然の申し出に学生、教職員一同、衝撃を受けたという。田中学長は何度も慰留に努めたが、本人の意思は固く、宮本教員の退職願は静かに受理された。

宮本は小学校6年生でヴァイオリンを始め、早くから外国人の手ほどきを受け、若い頃は天才少年といわれた。同志社大学に学び、卒業後は京都市役所に勤めながら京都交響楽団(京都トーキー楽団が改組したもの)などで演奏を続け、何度も召集を受けて戦地に赴くも無事復員。戦後は朝比奈隆らに勧められて市役所をやめ、朝比奈とともに大阪放送交響楽団や、関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)の初代コンサート・マスターとして活躍する。その後指揮者へ転身、1954年(昭和29年)5月、本学教員となった。

本学のオーケストラ授業が本格的に始まったのは四年制大学に昇格した1958年(昭和33年)のことで、その年から本学管弦楽団が組織されて、演奏旅行に参加することとなる。その授業を担当し、管弦楽団とともに全ての演奏旅行に赴き、定期演奏会をはじめ各種の演奏会でタクトを振ったのが宮本である。学外でのオペラ研究公演も朝比奈が振った数回を除いて、そのほとんどを指揮している。まさに大音オーケストラの生みの親、育ての親であった。

小柄で色白、縁なし眼鏡がトレードマークの宮本であったが、その指導は完全無欠、カミナリを落とすことで有名な大変怖い存在であったという。授業や練習で学生が泣かされることもしばしばで、時間厳守、マナーを大変重んじていた。聴衆に向かうときは、どのような場所で、どのような状況であっても、必ず燕尾服に着替えて演奏を行った。それが宮本の聴衆に対する礼儀であり、音楽に対する姿勢であったようである。

大音オケを率いて24年、本学で指導を受けた管弦打専攻生は500数十名にのぼり、その中から優秀な人材を数多く育て上げた。一方、大学のオーケストラは毎年確実にメンバーが替わるもので、演奏の質を保つには困難がつきまとう。宮本は生前、このように述べている。「オーケストラが音大の看板だなどと言う人があるが、それは実態を知らない者の言うことだ。看板となるように技術的なレベルを上げることだけを目的とするならば、学生の中から学年を問わず最も優れた者だけをピックアップして編成すればいい。しかし、このオーケストラは演奏機関ではなく教育機関なのだ。それを考えたとき、技術の高下ではなく、最終学年の学生を中心として編成せざるを得ないではないか」と。演奏者ではなく、教育者としての姿勢を優先させる言葉である。

宮本と最後の1年を過ごした学生たちは演奏会のたびに、特別の思いで演奏を行ったという。師の退任にあたり、送別の演奏会を企画するが、その1年に宮本と演奏した曲はそのとき以上の演奏はできないと、全く新しいチャイコフスキー《交響曲第6番「悲愴」》を選び、惜別と感謝の意をこめ、宮本に捧げた。

 

 

 指揮者、宮本政雄
宮本政雄は1950年(昭和25年)4月、関西交響楽団に入団。翌年9月に同団の常任指揮者に転身。1959年(昭和34年)9月、関西交響楽団が2楽団に分かれた際、新たに創設された大阪交響楽団(現同名楽団とは無関係)の指揮者を任されることとなる。

 

宮本政雄教員の指揮者デビュー
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関西交響楽団第51回定期演奏会
(昭和27年5月12日)
大阪交響楽団(中央が宮本政雄)
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(公社)大阪フィルハーモニー協会提供
『大阪フィルハーモニー交響楽団50年史』より

 

 

 

 本学と宮本政雄教員

 

短期大学第一回卒業演奏会プログラム(昭和28年3月22日)
宮本教員が初めて指揮した本学演奏会
翌昭和29年5月より本学教員となる
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オペラ研究公演を指揮
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第4回オペラ研究公演
《コジ・ファン・トゥッテ》
(昭和38年10月29)
宮本教員が指揮した最後の定期演奏会
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第24回定期演奏会(昭和56年11月20日)
レスピーギ《ローマの松》

 

宮本教員と本学管弦楽団(昭和44年頃 演奏会不明)
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オペラ研究公演練習風景(昭和46年頃)
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オーケストラ授業風景(昭和45~47年頃)
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演奏旅行
24年間、国内外各地で学生とともに演奏を行った
 
台湾演奏旅行にて
(昭和41年3月)
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台湾公演を仲介した本学卒業生の藤田梓とともに
ソウル大学校音楽大学との神戸公演
(昭和42年6月28日)
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ソウル大学校音大の林元植教授と握手する宮本教員(左)
ソウル大学校音楽大学との韓国公演
(昭和42年11月7日)
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ソウル市民会館での合同演奏会

 

学生とともに(撮影日不詳)
旅行先などで関係者から招待を受けても、宿舎で学生たちと過ごすことが多かったという。
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最後の演奏旅行
和歌山県民文化会館大ホールにおける最終公演は、アンコールの《赤とんぼ》の頃からステージ上がただならぬ空気に包まれていたという。終演後、学生たちのたっての願いで、再度宮本教員の指揮により、チャイコフスキー《交響曲第5番》の終楽章を演奏した。
 
終演後、無人のホールで演奏
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ステージ袖で胴上げされる宮本教員
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昭和56年度卒業式(昭和57年3月20日)
本学での最後の指揮となった
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宮本政雄教員送別演奏会(昭和57年3月20日)
指揮を依頼された宮本教員は、演奏旅行でのチャイコフスキー《交響曲第5番》の演奏で大音オケとの別れを済ませたとして、再び指揮台に上がることはなかったという。
 
指揮は田中弘
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宮本政雄教員
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宮本教員の労をねぎらう会が催された(開催日不詳)
 
宮本教員夫妻
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花束を受ける宮本教員
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宮本政雄教員を偲ぶ会(平成11年7月15日)
前年に亡くなった宮本教員を偲ぶ会が指導を受けた学生、関係者有志により、ぱうぜ2階において催された。
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