付属音楽高等学校閉校

1981年(昭和56年)3月31日、付属音楽高等学校が閉校した。戦後1948年(昭和23年)、大阪音楽学校から大阪音楽高等学校へ新制高校として生まれ変わり、短期大学が設置されてからは付属音楽高等学校となって33年のその歴史に終止符が打たれたのである。思えばこの高等学校設立のための校地転用の交渉斡旋を願いに、永井校長が当時の大阪中央放送局長であった水川清一を訪れたことが、終生二人三脚で本学を導いていくことになる2人の出会いを生んだのであった。1学年40名の生徒で始まった設立当初、永井校長が生徒一人ひとりを面接して入学させたという。音楽学校からの編入組など、1949年(昭和24年)3月の第一期卒業生は、のちに本学教授となる鎌谷静男ら39名であった。

以来、関西初の音楽単科高校として、いち早く義務教育終了者への早期音楽教育と音楽専門大学進学への準備教育に努め、志望者が増加する中でも1学年50名以下という少人数教育に徹した。大学設置後は高校から7年間の一貫教育をめざし、推薦制度を設けた。在校中のコンクール入賞者も多く、1965年(昭和40年)の第19回全日本学生音楽コンクール(毎日新聞社主催、NHK後援)では高校の部のピアノ、ヴァイオリン、声楽の3部門の1位を独占した。続く第25、29回にもそれぞれ声楽、ヴァイオリンで全国1位になるなど、同コンクールでの入賞者は29名におよぶ。33年間で送り出した音楽家の卵は1,636名。この卒業生たちのほとんどが本学へ進み、1968年(昭和43年)の開設以降60名が大学院へ進学している。

高校の閉校は、学校運営の財政的安定に必要な国庫補助金を確保するため、大学、短期大学の入学定員増が急務となり、やむを得ない苦渋の決断であった。定員増の条件である校地拡張を果たすには同じ校内にあった高校を移転せねばならず、一時は幼稚園を閉園し、その跡地に高校を移そうとしたが、土地面積が高校設置の条件を満たさないことが判明し、断念せざるを得なかった。まさに紆余曲折を経ての選択であり、同窓生をはじめ強い存続要望の声があったことも事実である。また、技術・芸術コースを新設し、高校教育の多様化を図ろうとする当時の教育界の流れと逆行するものでもあった。しかし、本学としては「大学院、大学、短期大学の充実、発展へ努力することこそが公共的使命である」と結論づけ、全学のエネルギーを大学に集中させることに舵を切ったのである。

閉校の断を下してから3年後の1981年(昭和56年)2月28日、本学ホールにおいて高校最後の演奏会となる卒業演奏会が開催された。そして3月5日、48名の最後の卒業生を送り出し、付属音楽高等学校は閉校した。
 

昭和30年頃
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昭和39年2年1組クラス写真
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 校外での演奏会


校内演奏会、本校主催の演奏会だけでなく、校外での様々な演奏会にも出演していた

関西交響楽団ベートーヴェン連続演奏会
(昭和28年7月3、4日)
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本学短期大学生とともに出演
芦屋女子高校出張演奏会
(昭和36年6月27日)
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 学園風景

 

高校があったD号館
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中庭にて
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生徒親睦会
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 レッスン・授業風景

 

ヴァイオリンレッスン
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ピアノレッスン
115
 
オーケストラ授業
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合唱授業
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ソルフェージュ授業
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世界史授業
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 付属音楽高等学校使用の教科書

 

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 三代校長による卒業式

 

永井幸次校長(昭和32年)
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水川清一校長(昭和40年)
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横井輝男校長(撮影年不詳)
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 最後の卒業生

 

北海道への修学旅行
第24回定期演奏会(昭和55年10月27日)
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最後の定演の幕が下りた
 
卒業演奏会プログラム
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高校最後の卒業式(昭和56年3月5日)
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第33期生となる48名が巣立っていった
 
 


 

 閉校の挨拶状

 

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