三財団の設立

1978年(昭和53年)3月15日の卒業式で、水川学長は社会福祉事業団、音楽文化振興財団、奨学事業財団という本学三財団発足の正式発表を行った。このうち最初に発足したのは、社会福祉事業団である。「文化社会・文化国家は福祉社会・福祉国家であります。文化の道を歩むものは、福祉の道を歩むものでなければならぬと思います」と同年7月15日発行の『四季楽報』第3号に水川はその設立趣旨、経緯について冒頭こう記している。水川には「福祉」は国家や地方自治体が担当すべきは当然だが、同時に各企業体や個人も「福祉」に努めるべきであるとの思いがあった。25年ほど前に自身カリエスを患い、杖を引く身となり、それ以来、大阪身体障がい者団体連合会長などを務め、福祉向上に力を注いできた。それは本学においても昭和42年度より入学試験に点字答案を認め、身障者雇用促進法の基準以上に積極的に身障者の雇用を行うことなどで実践していた。

財団設立のきっかけを作ったのは、図書館長、博物館長を歴任し、1975年(昭和50年)に亡くなった教員の市野正義であった。市野は生前、何かに役立てて欲しいと自身の退職金から640万円を本学に遺していた。これを基金とする社会福祉事業団の設立が1978年1月の理事会で可決。これは水川にとって長年の夢の実現であった。市野からの厚志を基に、利息も含め、教職員、父兄会(現・後援会)、幸楽会の協力も得て集まった1,200万円のうち、1,000万円を新たに基金として活動を開始。昭和53年度は9団体・1慈善事業へ220万円を寄付し、学生のボランティア活動や教員の社会福祉研究の助成、身体の不自由な学生への支援などを行った。

水川がこの社会福祉事業団について父兄会の役員会で了承を得た際に、さらに自らの夢物語として音楽文化振興財団と奨学事業財団の構想について語ったところ、役員の間から現行月500円の父兄会費を月1,000円に値上げして、値上げした500円分を3つの財団の財源に充てれば可能ではないかとの提案がなされ、役員会を経て父兄会総会でも可決されて、残る二財団も設立の運びとなった。何年かかるか分からない、生涯最後の目標としていた自らの構想が、全く予期せぬ形で実現できたことに、水川は大変感激したという。

音楽文化振興財団の事業内容は、本学教員の演奏会、著作・研究、国内外への留学、演奏旅行、幸楽会各支部の演奏会、音楽文化研究所(のち音楽研究所)提携の著作刊行物、各種市民合唱団や音楽団などの活動奨励、コンクール開催などへの多岐にわたる援助である。外来講師招聘に関わる費用の助成なども手がけるとした。さっそく始動した助成事業の一つに、女声コーラスの指導育成がある。年齢、経験を問わず参加者を募集したところ、18歳から67歳まで、三田市や南河内郡からの応募もあり、184名が集まった。豊中市内106名(八木宣好指導の土曜クラス)と市外78名(谷川勝巳指導の木曜クラス)の2グループに分け、昭和53年7月20日、学内において月3回約1時間半の練習を開始した。同年の大学祭でデビューを飾り、のちにそれぞれ「アルス・ノーヴァ」、「せせらぎ」と命名される。

奨学事業財団は昭和56年度より本学独自の奨学金の貸与、特待生制度を設けて学費援助を開始。奨学金は一般貸与(毎月)と特別貸与(緊急時の一時金)の2種類であった。なお、これら三財団は一部実績が先行し、組織・体制が確立したのは1980年(昭和55年)7月1日のことである。第1回運営会議において、運営方法、企画は大学、父兄会、幸楽会の三者が立案、推進するという基本方針と、各責任者を音楽文化振興財団=学長補佐、奨学事業財団=学生部長、社会福祉事業団=事務局長とすることを決定した。




水川学長が父兄会全員に送った三財団設立に関する書状(昭和53年12月14日)

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