中興の祖、逝く

1979年(昭和54年)1月の学長選挙で四度目(1975年の信任投票を含めて五度目)の当選を果たすも体調不良を訴え、3月15日の卒業式出席以降、長い療養生活を送っていた水川学長が1980年(昭和55年)2月26日、腹部大動脈瘤破裂のため、ついにこの世を去った。79歳であった。

創立者永井幸次はその生涯をして、「関西洋楽の歴史である」といわれたが、その永井と出会い、1950年(昭和25年)に本学理事長に就任してからの水川の生涯は、まさに「本学発展の歴史」といえる。朝比奈隆も大学葬において、「豊中の新校地に移ってからあとの目を見張るような本学の発展は、今改めてくり返すまでもなく、みんなあなたの抜群の企画力と実行力に他なりません」と弔辞で述べたように、短期大学への組織変更、庄内移転、庄内校舎の整備、大学設立、全校舎建て替え工事、短期大学部、研究所、博物館、大学・短大専攻科、付属音楽幼稚園、大学院、邦楽専攻の各開設、音楽による国際親善など、その偉業は枚挙にいとまがない。「本学中興の祖」たるゆえんである。

ユーモアに富み、独創的な発想力と大きな包容力を持ち、『永井幸次先生と本学』と題した印刷物に創立者永井の功績を記して毎年配布していたことからも、義に熱い人物であったろうことは想像に難くない。社会福祉、社会教育、音楽教育の向上に尽くした功績も大きく、多方面での活躍が著しかったため、各界から3月5日の大学葬に集まった参列者は1,500名を超えた。

大学葬はブルックナー《交響曲第9番》の流れる中、本学ホールで行われた。半数以上の参列者は入りきらないため、中庭に大テントを設置して式場の模様をテレビ中継した。校歌が演奏され、安置されていた学長室から遺骨が入場、一同黙祷ののち本学管弦楽団が宮本政雄教員の指揮でベートーヴェン《交響曲第3番「英雄」》より「葬送行進曲」を献奏した。葬儀委員長久保田藤麿以下、朝比奈や幸楽会会長木村四郎などの弔辞が続き、亡き水川を偲ぶスライドの映写、前日に発見された故人の詩の朗読や最後の出席となった前年の卒業式の式辞の一部を録音テープで流すなどして、在りし日のその面影に思いを馳せた。

戦後の困難な時代に創立者永井幸次から本学の運営を委ねられて30年、永井亡きあとその遺志を継ぎ、学長としても15年。その強いリーダーシップで現在に至る本学の基礎をすべて築き上げ、帰らぬ人となった水川であったが、晩年、人生最後の念願として学部に第二部(夜間)を開設して三年に編入を許可すること、短大の音楽保育科新設の他、さらに実現したい2つの構想があったという。それがどういったものであったかは現在知る由もないが、本学の発展は常に前進、向上をめざした水川清一という中興の祖なくしては、成し得なかったのである。

 

 

 

 水川清一学長・理事長大学葬(3月5日 本学ホール)

 

校歌演奏で祭壇へ遺骨を迎えた
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オーケストラ・ピットで献奏する本学管弦楽団
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弔辞を述べる朝比奈隆
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朝比奈と水川の出会いは、戦後、外地から引き揚げてきた朝比奈が、荒廃した大阪の地でオーケストラを作りたいと奔走し、大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)を訪れた時にさかのぼる。当時の局長が水川であり、朝比奈の活動に協力、激励をしたという。1947年(昭和22年)、朝比奈は関西交響楽団を創設。3年後に設立された関西交響楽協会の監事、専務理事として、水川は最も困難な初期の10年間、その運営にあたった。朝比奈は弔辞で「大阪フィルハーモニー交響楽団が今日あるのは、その10年間のおかげだとも言えましょう」と水川への感謝の意を述べた。


 

本学管弦楽団がグリーグ《ペール・ギュント》より「オーセの死」を演奏する中、献花が続いた。その後、遺骨が遺族の胸に抱かれ学長室へ向かう間、中庭のテントにおいて、辻井清幸指揮の本学吹奏楽団がリード《逝ける者への哀歌》を演奏し、惜別の大学葬を締めくくった。
 
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 故人を偲んで

 

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宮本政雄教員と台湾演奏旅行
にて
(昭和41年3月)
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服部緑地での体育祭
中央が水川学長・理事長(昭和41年10月)
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大阪空港でソウル大学校音楽大学一行を見送る
水川学長・理事長
(昭和42年7月)
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自ら提唱の日中韓三音楽大学音楽教育会議
(昭和45年6月)
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三笠宮殿下に楽器博物館を
ご案内
(昭和46年7月)
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大学祭にて
(昭和53年11月)
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最後の出席となった卒業式(昭和54年3月)
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水川学長・理事長の書
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好んで使われていた言葉
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毎年作成、配布していた『永井幸次先生と本学』
毎年「大阪音楽大学の沿革はそのまゝ創設者であり、初代学長の故永井幸次先生の尊い人生記録でもある」の書き出しで始まり、本学の歴史に各年の動向を書き加え、最後は必ず「永い伝統に誇りをもち、創設者永井先生の開学精神にもとづき、若杉がすくすく育ってゆくように常に進歩向上をめざして、新しい校舎でみんなが一つになっていそしんでいるのが、今の「音大」の姿である」という記述でくくられていた。

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 水川清一学長・理事長のあゆみ


1900年(明治33年)00歳 岡山県吉備郡真備町(現・倉敷市)に生まれる
1926年(大正15年)25歳 東京大学文学部社会学科卒業
1926年(大正15年25歳 大阪府立農業補習学校教員養成所教諭
1935年(昭和10年)34歳 青年学校教員養成所教諭
1936年(昭和11年)36歳 大阪府社会教育主事
1938年(昭和13年)37歳 京都府社会教育主事
1940年(昭和15年)39歳 文部省社会教育官
1942年(昭和17年)42歳 大使館調査官として中華民国北京、文化局兼政務局勤務
1943年(昭和18年)43歳 文部省教学官として社会教育局勤務
1944年(昭和19年)44歳 日本放送協会参事、同業務局教養部長
1946年(昭和21年)45歳 日本放送協会理事、大阪中央放送局長
1948年(昭和23年)48歳 大阪府教育委員
1950年(昭和25年)49歳 大阪音楽高等学校理事長
1950年(昭和25年)49歳 学校法人大阪工業大学理事長
1951年(昭和26年)50歳 学校法人大阪音楽短期大学理事長
1952年(昭和27年)51歳 関西交響楽協会専務理事(1959年より理事)
1958年(昭和33年)57歳 学校法人大阪音楽大学理事長
1958年(昭和33年)58歳 大阪身体障がい者団体連合会会長
1959年(昭和34年)58歳 大阪音楽大学教授
1960年(昭和35年)59歳 有限会社大阪交響楽協会代表取締役社長
1960年(昭和35年)60歳 大阪府社会教育委員
1964年(昭和39年)63歳 財団法人電子文化研究所理事長
1964年(昭和39年)64歳 社会教育振興への寄与に対し藍綬褒章受章
1965年(昭和40年)64歳 大阪音楽大学・同短期大学学長、同付属音楽高等学校校長
1966年(昭和41年)65歳 大阪音楽大学音楽文化研究所所長
1967年(昭和42年)66歳 大阪音楽大学付属音楽幼稚園園長
1967年(昭和42年)67歳 大韓民国ソウル名誉市民
1968年(昭和43年)68歳 関西音楽大学協会会長
1969年(昭和44年)69歳 大阪文化賞受賞
1970年(昭和45年)70歳 永年、教育学術文化向上のための多大な功績に対し勲三等旭日中綬章受章
1973年(昭和48年)72歳 多年の社会通信教育への貢献に対し文部大臣より感謝状
1974年(昭和49年)73歳 大阪府社会福祉費の寄付に対し紺綬褒章受章
1977年(昭和52年)76歳 大阪音楽大学楽器博物館館長
1978年(昭和53年)77歳 身体障がい者福祉事業への尽力に対し厚生大臣より表彰
1980年(昭和55年)79歳 永眠


 

水川清一(1900~1980)
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水川学長・理事長の胸像(K号館2階)
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