研究所の開設

水川学長は1966年(昭和41年)9月、『本学のゆくべき道』と題した文章の中で次のように記している。
「大学は先人の業績を伝承するだけの機関ではない。『うた』を上手に歌い、ピアノを巧みにひくだけが──それだけが大学教育の目的ではない。芸術としての音楽文化を現状よりさらに発展、前進、向上させるところに、大学の使命がある。本学は音楽を通じて教養ある社会人を育成するとともに進歩的な良識ある音楽家を育成することを目的としている。そのためにはすべてにおいて『修練・研究・創造』が重視されねばならぬ。
まず、教授指導に当る教師の方々の『研究』は奨励されるべく、またこれには充分な援助が必要である。本学では41年4月から『音楽文化研究所』を開設した。研究を推進し、援助する機関として誕生したのである」

こうして設立された研究所は8名の教員による5年~7年はかかるという大がかりな研究から単独の研究を含め、6つのテーマからスタートした。その中の一つ、機関研究として図書館事務室の一隅に設けられた「大阪音楽文化史資料編纂室」は1968、1970年(昭和43、45年)に『大阪音楽文化史資料 明治・大正編』『同 昭和編』を刊行して、大阪を中心とする関西の洋楽受容の歴史を貴重な記録資料にまとめ上げた。

またピアノの武田邦夫教員は研究所ができたばかりの4月5日、九州大学医学部で開かれた「第1回日本リハビリテーション医学総会」で、大阪大学医学部「手の外科グループ」の江川常一と共同開発した「手指の機能回復のためのオルガン」を発表した。これはピアノ演奏における指のより効果的な訓練を研究するうちに、障がい者の治療・訓練との接点を見出し、異分野の専門家と連携するようになったものであった。

本学7名の教員と大阪科学教育センターの心理学の専門家からなる音楽教育研究のグループも、より実践的な実技教育のあり方を探ろうと「音楽教育における創造性の開発」という共同研究を行い、各種学会で3度にわたり成果を発表。教育学と音楽という両面からの実証的研究として反響を呼んだ。

これらの研究はその成果が「創造」に帰結することを期待され、機関、グループ、個人の単位でそれぞれ続けられた。この音楽文化研究所はF号館、H号館へと移転を繰り返し、のちの音楽研究所へと発展していくのである。