変革の第一歩

日本の高度経済成長期といわれる時期に国民所得は急上昇し、大学への進学率は格段に上がった。それは第一次ベビーブームで生まれた子供たちが高校を卒業する頃でもあった。また、三種の神器といわれるテレビ、冷蔵庫、洗濯機はもとより、一種のステータス・シンボルとしてピアノが急速に普及した。1969年(昭和44年)、わが国は世界最大のピアノ生産国に躍り出る。そんな中、本学への入学志願者も激増し、昭和41年度入試の受験者数は「学部で7倍近くになる見込み、短大は締め切り1週間前にしてすでに定員を460名オーバーしている」と当時の関西音楽新聞が伝えている。

しかしこのような変化は量的なものだけではなく、音楽大学をめざす学生の中には、質的な変化も見られるようになっていた。戦前、音楽学校といえば音楽家、もしくは音楽教育家を養成する目的で教育が行われていた。しかし時代とともに、専門家ではなく、音楽を通じてより高い教養人となることを目標として音楽大学を志望する人達が増えたのである。

本学はより専門的に音楽を学ぼうとする学生のために専攻科や大学院の開設を準備するとともに、新たな社会的ニーズに応える必要もあると考え、短期大学に新専攻を設置することとした。これは故永井学長の跡を継いで学長となった水川の、学長2年目にして打ち出した、「本学を現状より更に発展、向上せしめる」ための具体策の一つであった。

「音楽専攻」と名づけたその新専攻は特定の一部門ではなく、声楽、ピアノ、音楽理論などを総合的に教育し、調和のとれた豊かな音楽教養を身につけることで、教育などの実践に役立てたり、自らに適した道を見出させたりすることを目的としたコースで、声楽も器楽も正科扱いとした。電子オルガン、音楽鑑賞、作曲法などもカリキュラムに入れ、実技はグループレッスンとした。

第一部に定員100名の音楽専攻を増設し、第二部は専攻別を廃止、40名すべてを音楽専攻と改組した。これにより短期大学の昭和41年度の募集は第一部:作曲・声楽・器楽専攻80名、音楽専攻100名の計180名、第二部:音楽専攻40名となった。それでも前述のような受験倍率であった。大学も昭和42年度の入学定員を65名から100名へと増員した。

戦後20年、本学は社会が音楽大学に求める量・質の変化に対応すべく、変革の第一歩を行ったのである。