山田耕筰の軌跡

暮れも押し迫った27日、山田耕筰が息を引き取った。享年79歳。平均寿命が60代後半だった当時を考えれば、かなりの長寿である。

《赤とんぼ》の人として広く知られている山田耕筰は、波乱万丈の人生を送った。1886年(明治19年)東京生。父は伝道師・医師。まず、生活にはキリスト教があり、キリスト教を通じて音楽があった。また、10歳の時に父を亡くすが、教会の施設で数年を過ごすことになったために、引き続いて宗教と西洋音楽の中で育つことになった。明治期、キリスト教は日本人が西洋音楽に触れる数少ないチャンネルであった。島崎赤太郎、永井幸次、信時潔、鷲見三郎等々、キリスト教を通じて西洋音楽の世界に親しみ、後に大成した音楽家は数えきれない。

山田はその後、姉の援助を得て関西学院中学部に学び、次いで東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学する。当然のことながら成績優秀であったが、教官のユンケルと言い争ってチェロの弓をひったくり真っ二つに折ったり、悪友と飲み歩いたりと、血気盛んな学生でもあった。1908年(明治41年)卒業。同期卒業に童謡界で活躍した本居長世、新潟の音楽教育界を担った斉藤正直がいる。

岩崎小弥太の援助を得て1910年(明治43年)から1912年(明治45年)にかけてドイツ留学。作曲に演奏にと、海外での活躍ぶりは周知の通りである。また、帰国後も交響楽団を組織したり、オペラ上演に取り組んだり、よりいっそうの活躍を続ける。当時の作品に《かちどきと平和》がある。明治期日本の音楽文化状況を思い描くならば、高度に洗練された驚くべき作品である。

昭和が始まり軍国主義が猛威を振るうようになっても、山田の快進撃は止まらなかった。日本音楽文化協会の副会長・会長を歴任し、軍服を着て飛び回った。戦争が終わって民主主義が布かれても山田は創り続けた。また、大阪国際フェスティバルにおいて贅を尽くしたオペラ《黒船》が上演された時には指揮棒を取った。相愛女子大学(現・相愛大学)では教育活動に取り組んだ。振り返ると大阪での活動が目立つが、風土に居心地の良さを感じたのかもしれない。

1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、山田は長い闘病生活を送ることになった。文化勲章授与という名誉を得た山田であったが、運動の自由を奪われた晩年となった。彼にとってはおそらく失意の晩年だったことだろう。

なお、山田耕筰よりも一年遅く生まれ同年に亡くなったのが、《海ゆかば》で有名な信時潔である。大阪生まれで、父は大阪北教会の牧師。市岡中学を経て東京音楽学校に学び、卒業後そのまま助教授になる。官費留学、皇紀二千六百年奉祝芸能祭制定《交声曲「海道東征」》の作曲、1963年(昭和38年)には文化功労者に選出という栄誉の人生を送った。