和洋音楽の学府となる

昭和42年度は教学面で実に多くの変革がなされた年である。大学・短期大学ともに専攻科が開設され、作曲学科には新たに楽理専攻が設けられた。関西初の音楽幼稚園が新設されたのもこの年である。加えて、短期大学の音楽専攻に箏コースを併設することとなった。

「行く行くは日本音楽をも一まとめにして一大音楽堂を建て、日曜日に行けばピアノが、月曜日に行けば長唄が聞かれると云う迄に仕上げたいのが私の最後の抱負である」というのは本学が創立された1915年(大正4年)10月9日付の大阪朝日新聞に報じられた永井幸次の言葉である。この言葉を実現すべく、過去にも何度か試みられたがかなわず、ようやく宿願成就したのである。

指導者には、関西が誇る邦楽家の一人で、のちに人間国宝に認定された生田流箏・野川流地歌の名人、菊原初子や、宮城道雄の西の後継者とされ、西洋音楽と邦楽の融和をめざした須山知行、門下の中島警子などそうそうたる教授陣を得て、箏専攻が誕生した。

以後、昭和49年度には短期大学専攻科の器楽専攻にも箏を加え、昭和51年度には短期大学の音楽専攻にあった箏を器楽専攻に移し、大学の器楽学科に箏専攻を開設。昭和53年度からは大学専攻科の器楽専攻にも箏を導入し、大学、短期大学、そして各専攻科に邦楽部門がそろうこととなった。

この邦楽部門開設の頃、本学はちょうど将来に向け、国際的視野に立って教育を進めて行こうという指針を打ち出していた。そして国際交流を広げる中で、逆に「日本の音楽」「日本の音楽教育」のあり方に自覚と反省が生まれた。当時の水川学長が掲げた、本学を単なる「洋楽大学」ではなく真の「音楽大学」へ──この思いが邦楽部門の充実へとつながっていったのである。




菊原初子
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須山知行
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