大阪からの発信

<内地>

音楽文化が成熟するにつれて徐々に試みられるようになるのが文化の発信である。早くも大阪では大正期から大阪音楽学校による演奏旅行が試みられているが、1963年(昭和38年)に初回、1965年(昭和40年)に第2回が開催された大阪フィルハーモニー交響楽団によるビクター・コンサートホールは、西日本の人々を中心に交響楽に接する機会を与える画期的な試みとなった。日本ビクター株式会社の協賛を得て、大阪フィルハーモニー交響楽団が地方都市で演奏会と中学・高校生のためのオーケストラによる音楽教室を開催するという企画であり、第2回の巡業ルートは次の通りである:5月16日姫路、23日広島三次、24日八幡、25日大分、26日熊本、27日鹿児島、6月1日佐賀、2日佐世保、3日八幡。

連日開催という過密スケジュールが目を惹くが、演奏会は各地で大好評を持って迎えられた。当時の新聞は2,000人以上詰めかけた会場もあったと報じている。学校での講習会も考慮するならば、膨大な数の人々が西洋音楽を楽しんだことだろう。なお、演奏会場が地域文化の状況を示していることも興味深い。「会館」や「ホール」という名称に「体育館」が混じる。体育館で演奏会を開催せざるを得なかった事情が推し量られる。

ところで、同年秋にも大阪フィルハーモニー交響楽団は山陰へ演奏旅行を行った。文部省の芸術振興補助金によるもので、この種の試みが助成されたのはわが国初のことであった。


<外地>
第2回ビクター・コンサートホールの合間を縫って行われた大阪フィルハーモニー交響楽団による沖縄演奏旅行もまた、両日とも琉球大学体育館に2,000人以上の聴衆が詰めかける大盛況となった。沖縄の人々の西洋音楽への強い興味関心がうかがえるが、交響楽団の来沖はシンフォニー・オブ・ジ・エアが1回、NHK交響楽団が2回を数えるのみだったということも関連していたに違いない。演奏曲目は初日が《ニュルンベルクの名歌手》、《運命》、《新世界より》、二日目が《フィンランディア》、《未完成》、《英雄》であった。

団員は渡航に際してビザをとる必要があった。また、到着早々に糸満市字摩文仁(まぶに)の大阪府関係戦没者を追悼する「なにわの塔」において、《国の鎮め》、《大阪市歌》、《君が代行進曲》等が霊前演奏された。加えて初日の演奏会は《アメリカ国歌》と《君が代》の演奏で始まり、二日目はこれが中止された。二日目に際して《君が代》だけにしてくれという希望があり、これに難色が示されて、結局国歌無しになったのである。当地の人々は《新世界より》をどのような思いで聴いたのだろう。沖縄の戦後は1972年(昭和47年)から始まる。(データは『関西音楽新聞』第158号による)



第2回ビクター・コンサートホール プログラム表紙と日程

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第2回ビクター・コンサートホール 熊本公演チラシ

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