関西音楽界の父、逝く

いつも口癖のように「130まで生きますよ」と言っていたという永井学長が1965年(昭和40年)4月7日、脳軟化症のため、91歳でついに帰らぬ人となった。

9日に豊中梅花教会で密葬、16日に本学ホールで大学葬が営まれた。当日は、まず遺骨を9分通り竣工していた4階建ての本館(現在のA館)の学長室に安置した。一日でも一度でも永井に新しい学長室に入ってもらいたいと工事を急いだが、生前その願いは成し得なかったので、せめてもの心づかいであったという。

「大きな光が消えました。大きな、大きな光が消えました…」。祭壇に移された御霊に向かい、葬儀委員長の水川理事長が式辞を読み上げた。「先生のご生涯は全く本学の歴史であり、本学は先生のご生涯であります。それはまた関西における、我国における音楽教育の発達史であります…」。会場では本学の学生、生徒たちがフォーレ《レクイエム》より「天国にて」、永井の合唱曲《菊》、《春の海》、《つみ草》、そしてベートーヴェン《英雄》より「葬送行進曲」を演奏し、数多くつめかけた弔問客たちが次々に献花を行った。

高潔、至誠、温厚、律儀、滅私、慈愛、不屈、克己の人…。音楽不毛といわれた関西で半世紀以上も音楽教育に尽くし、関西音楽界の父といわれた永井幸次を表す言葉の数々である。敬虔なクリスチャンであり、終生音楽への情熱に燃えた永井の人生は、「音楽によって人類のために役立つように」という信念を具現化したものであった。繊細且つ強靭な精神を併せ持ち、戦時中、わずかに残った女生徒を学校代表として挺身隊に送る際、「再び平和の訪れと共に必ずこの学校は開く、私はこの学校に運命をかけている、もしこの学校がつぶれるような時は私も生きていない」とその気迫は鬼気迫るものがあったという。

来阪以前から数えると91年の生涯のうち約70年、音楽教育者として永井が残した功績は、現在のその知名度以上に大きいものがある。各地の音楽教師を歴任、教師たちの指導も行った。音楽教科書の乏しい時代にその発行編纂に努め、全国の音楽教育の振興に寄与。所在の分かる学校だけで31都道府県の校歌、および各種団体歌、唱歌、合唱曲などを多数作曲し、情操教育の向上に努めた。そして何より、私財を投じて本学を創設し、昭和40年当時で約3,000名、現在35,099名におよぶ音楽人を世に送り出した功績に勝るものはない。音楽教育は東京だけのものであってはならないとし、関西の地方文化向上に多大な貢献を果たした。

常に自分に厳しく、自己を律して生きていた永井は、自らの教訓とする言葉を多く残している。その一つに、「常に希望に燃え、夢を持ち続けよ」という言葉がある。永井は常に夢を持ち続けていた。「夢を実現し得た時の悦びは到底金では買えないものである」と記している。一つかなえれば、また次の夢、またその次と、尽きせぬ夢の実現が本学を発展へと導いていったのである。

永井が亡くなったこの年、信時潔、山田耕筰という関西ゆかりの2人の作曲家が、奇しくも同じくこの世を去った。




永井学長の死を悼んで
本学ホールでの大学葬
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数多くの弔問客がつめかけた
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式辞を読み上げる水川理事長
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高等学校生徒たちが永井幸次作品を合唱
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宮本政雄教員指揮による《葬送行進曲》
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次々に献花を捧げる弔問客
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ホール内の様子は食堂でテレビ中継された
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ホールの外でも演奏で御霊を見送った
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