“第二期”スタート──水川新学長誕生

創立者永井幸次の死去に伴い、理事長水川清一が第二代学長に就任した。水川は理事長就任以前より、大阪音楽高等学校の設置申請の際、また短大設置について本学が紛糾した際、解決の労をとってきた。その手腕を買われて1950年(昭和25年)理事長就任以来、厳しい状況下、様々な局面をその非凡な才で牽引してきた実績もあった。永井学長の大学葬を執り行った4月16日の夜、緊急教授会において満場一致で推薦され、理事会もこれを承認、短期大学部学長および付属音楽高等学校校長もすべて水川に引き継がれることとなった。本学は新たな指導者の下、“第二期”のスタートを切った。

理事長に加え学長の重責をも担うことになった水川は、実に数々の経歴の持ち主である。大阪府青年教員養成所教諭をふりだしに、大阪府社会教育主事、京都府社会教育課長、文部省社会視学官を経て、文部省派遣の北京大使館文化班勤務ののち、日本放送協会教養部長、大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)初代局長となる。さらに大阪府教育委員を務め、大阪工業大学理事長を歴任。また大阪福祉事業協会理事長、身体障がい者協会会長などの役職も多く、一時期関西交響楽協会専務理事も務めていた。

「知識人は勇気を持て」が持論。大阪中央放送局長時代にはアイスクリームを作って売ったというエピソードもあり、常識を超えて前進するというのが信条だったようである。本学においてもビニール製の屋根の野外音楽堂を考案し、映画による大学昇格記念式典を演出したのも水川であった。稀代のアイデア・マンといえる。

社会学が専門で本学でも教鞭をとっていたが、音響学なども研究し、東京の電気技術の短期通信教育で指導も行っていた。「音楽に科学性を持たせる必要がある」として文部省にかけあい、音響研究のための機材を購入。「“産業と音楽”の握手を手がけたい」と、当時社会で言われつつあった産学連携をいち早く模索していた。

水川は学長就任当時の抱負を次のように語っている。「音楽教育といっても人間形成を優先すべきで、中央楽壇で活躍できる人はごくわずかでしょうし、音楽的教養が身につく教育を推し進めたい」。働きながら学ぶ人達のために夜間部を拡充して広く門戸を開放するため、翌1961年度(昭和41年度)短期大学部第二部を音楽専攻として開設。偉大な創立者の跡を受け、本学の行く末をゆだねられた水川は、その発展の大きな原動力となって歴史をつないでいくことになる。


 

第二代学長 水川清一

画像

 

 

水川理事長考案の緑色鍵盤ピアノ(音楽博物館所蔵)
1963年(昭和38年)水川理事長が考案し、日本楽器株式会社(現・ヤマハ株式会社)に試作させた

画像

 

ピアノの鍵盤は白という固定概念を捨て、目の疲労を少なくするために鍵盤の色彩を研究
文部省から科学振興の名目でピアノ5台分の助成を受けたという。もしかすると、他に4色の鍵盤のピアノがあったのかもしれない

画像