新校地、庄内へ

戦後10年足らずのうちに、高等学校開校、短期大学開学、さらに第二部増設と宿願を果たしたものの、そのたびに頭を悩ませてきたのが運動場の確保であり、常に「追って適当な校地を求める」という条件付きでそれらは成し得たものであった。そして学内は気が付けば学生・生徒・教職員を合わせると約300人の大所帯となり、いよいよ味原校舎は手狭になっていた。しかし周囲はもちろん、大阪市内に運動場を備えられるだけの広大な土地を見つけることは、もはや至難の業であった。水川理事長は近郊への移転を検討することとなる。

第二部増設申請に苦労していた1953年(昭和28年)の初め頃、水川は東京へ向かう車中で偶然、豊能郡庄内町長の中山辰太郎と隣り合わせになった。会話を交わすうちに、庄内町の合併問題の話題になり、大阪市と豊中市が競合しているが、どうやら大阪市に決まりそうだと聞く。大阪音楽短期大学なので、願わくば大阪市内の移転が望ましいと考えながらも断念しかけていた水川にとって、それはこの上ない情報であった。中山町長に本学の抱える移転問題を説明し、庄内町への移転に協力をもとめた。

この車中の話が縁で、水川は町長から、望月小太郎(のちに本学理事)ら数人の同町地主が所有していた3千坪の土地を紹介してもらう。望月は大阪府会議員時代に府教育委員長だった水川とも交流のあった人物で、交渉の結果、坪500円という破格の地価で入手することができた。それが現校地の庄内幸町である。当時は池が点在し、あたり一面は畑で、現在市道となっている北側の土堤に沿って、幅2mほどの小さな川が流れていたという。土堤の上では牛が遊んでいる、のどかな農村風景が広がっていた。

1954年(昭和29年)7月に校舎建設の許可申請を提出し、ほどなく地鎮祭も行った。10月初めに木造2階建て6教室の1号館が完成。3教室を高校、2教室を短期大学、残りの1教室を教職員・事務室にあてた。1号館北側にはレッスン室、練習室が20室ほどあり、小食堂や購買部のようなものもあったという。創立39周年の10月15日、創立記念日に移転を完了する。翌年、戦禍をもくぐり抜け、本学30年間の歴史を刻んだ味原校舎は売却された。新校舎建設の資金のためとはいえ、永井学長の分身ともいうべき旧校舎の売却を水川は終生、永井に対して申し訳なかったと後悔していたという。しかしそれはこのあと4年間計7期の工事を支え、次なる前進への礎となったのである。



校舎建設前の庄内校地

校舎建設前の庄内校地

 

北東から見た校地内の池、1号館(奥)、レッスン・練習室(手前)
 
校舎内
 
校地内の池から見た1号館 校舎内

 

レッスン室
 
練習室
 
レッスン室の一部 練習室

 


昭和30年頃の庄内駅(左)と北側の踏切(右)

庄内駅と北側の踏切(昭和30年頃) 庄内駅と北側の踏切(昭和30年頃)

 

 

味原校舎3階講堂にあった革張り椅子
楽譜《凱旋》の収益で購入したもので、味原30年の歴史を象徴する記念品として移転の際に運んできた
現在、K号館4階の音楽博物館前に展示されている

味原校舎3階講堂にあった革張り椅子



椅子には永井学長への思いのこもった水川理事長の文章が添えられている

水川理事長の文章